有子(ゆうし)
姓は有、名は若、字は子有。孔子より十三歳若い。
其の人と為りや孝弟にして|「論語」学而第一02
礼の用は和を貴しと為す|「論語」学而第一12
信義に近きときは、言復むべきなり|「論語」学而第一13
曾子(そうし)曽子(そうし)
姓は曾、名は参(しん)、字は子輿(しよ)。孔子より四十六歳若い。
孔子の教えを伝えた第一人者と言われています。
吾日に吾が身を三省す|「論語」学而第一04
終を慎み遠きを追えば|「論語」学而第一09
夫子の道は、忠恕のみ|「論語」里仁第四15
而今よりして後、吾免るるを知るかな|「論語」泰伯第八03
君子道に貴ぶ所の者三|「論語」泰伯第八04
昔者吾が友、嘗て斯に従事せり|「論語」泰伯第八05
君子人か、君子人なり|「論語」泰伯第八06
仁以て己が任と為す、亦重からずや|「論語」泰伯第八07
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭|「論語」先進第十一17
子夏(しか)商(しょう)
姓は卜(ぼく)、名は商(しょう)、字(あざな)は子夏(しか)。孔子より四十四歳年下。
衛の人。つつましやかでまじめな人柄で、また消極的だったらしい。
賢を賢として色に易え|「論語」学而第一07
子夏孝を問う。子曰わく、色難し|「論語」為政第二08
絵の事は素より後にす。曰わく、礼は後か|「論語」八佾第三08
女君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ|「論語」雍也第六11
※学問好きの子夏は志を持って学究するように孔子から伝えられた。
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「文学には子游・子夏」
過ぎたるはなお及ばざるがごとし|「論語」先進第十一15
※子夏は及ばないといいました。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
子禽(しきん)
姓は陳、名は亢、子禽は字。孔子より四十歳若い。
夫子の是の邦に至るや、必ず其の政を聞く|「論語」学而第一10
子路(しろ)季路(きろ)由(ゆう)仲由(ちゅうゆう)
姓は仲(ちゅう)、名は由(ゆう)、字は子路(しろ)・季路(きろ)。孔子より九歳若く孔子門人の中で最年長。孔子のボディガード役を果たした。
之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり|「論語」為政第二17
※この章句では、孔子から親しみを込めて名で呼ばれている。
我に従わん者は其れ由なるか|「論語」公冶長第五07
※もし孔子が逃げ出したくなったとき着いてくるのは子路くらいだと言われ喜ぶ。
其の仁を知らざるなり|「論語」公冶長第五08
※千乗の規模を誇る国の軍隊を扱わせるだけの能力があると孔子に評価された。
唯聞く有らんことを恐る|「論語」公冶長第五14
※学びをひとつひとつ実践することを心がけ、それが不十分であれば新しい学びを知ることさえ恐れる実直さを持っていた。
由や果なり。政に従うに於て何か有らん|「論語」雍也第六06
※決断力がある、政治を担当することに問題ないと評価されている。
予が否なる所の者は、天之を厭たん|「論語」雍也第六26
子路曰わく、子三軍を行らば則ち誰と与にせん|「論語」述而第七10
※孔子が大軍を動かすとしたら弟子の中では子路自身に任せるだろうと質問をする場面。これに答える孔子のことばが印象的。
葉公孔子を子路に問う。子路対えず|「論語」述而第七18
※孔子の人柄について尋ねられたが、子路なりの考えがあって答えなかった。
丘の祈ること久し|「論語」述而第七34
※孔子の容態を心配して祈ることを願い出た。
無寧二三子の手に死なんか|「論語」子罕第九12
※孔子の病床において大夫の待遇を諌められるも、孔子からその配慮に感謝された。
時なるかな時なるかな|「論語」郷党第十18
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「政事には冉有・季路」
未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん|「論語」先進第十一11
※孔子に神に仕えることとは?死とは?と質問したが、たしなめられている。
子路行行如たり|「論語」先進第十一12
※孔子が弟子に囲まれて楽しそうな様子の中で、子路の行く末を案じています。
由や堂に升れり。未だ室に入らざるなり|「論語」先進第十一14
※大琴の技量を評価されている。
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭|「論語」先進第十一17
聞くままに斯れ諸を行わんか|「論語」先進第十一21
※聞いたことをすぐ実行するのではなく相談して行うようにアドバイスされます。
道を以て君に事え、不可なれば則ち止む|「論語」先進第十一23
子貢(しこう)賜(し)
姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、字は子貢(しこう)。孔子より三十一歳若い。「論語」の中で孔子との問答がもっとも多い。言葉巧みな雄弁家で自信家だったが、孔子には聡明さを褒められ、言葉の多さを指摘されている。
経済面で能力が高かったと言われている。
夫子の是の邦に至るや、必ず其の政を聞く|「論語」学而第一10
切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しと|「論語」学而第一15
※この章句では、孔子から親しみを込めて名で呼ばれている。
先ず行う其の言は、而る後に之に従う|「論語」為政第二13
我は其の礼を愛しむ|「論語」八佾第三17
子曰わく、女は器なり|「論語」公冶長第五04
※この章句では、自分のことを名で呼んでいる。
如かざるなり。吾と女と如ざるなり|「論語」公冶長第五09
※この章句では、自分のことを名で呼んでいる。
賜や爾が及ぶ所に非ざるなり|「論語」公冶長第五12
夫子の文章は、得て聞くべきなり|「論語」公冶長第五13
賜や達なり。政に従うに於て何か有らん|「論語」雍也第六06
※物事をよく知っている、政治を担当することに問題ないと評価されている。
仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん|「論語」述而第七14
斯に美玉有り。匵に韞めて諸を蔵せんか、善賈を求めて諸を沽らんか|「論語」子罕第九13
※孔子を美玉にたとえて問答する。
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「言語には宰我・子貢」
冉有・子貢侃侃如たり|「論語」先進第十一12
※孔子が弟子に囲まれて楽しそうな様子です。
過ぎたるはなお及ばざるがごとし|「論語」先進第十一15
※子貢の問いに答えました。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
億れば則ち屢中る|「論語」先進第十一18
※顔淵と子貢を比較した章句です。
冉有(ぜんゆう)求(きゅう)冉求(ぜんきゅう)
姓は冉(ぜん)、名は求(きゅう)また有(ゆう)。字は子有(しゆう)。孔子より二十九歳若い。温和な性格だったようです。
嗚呼、曾ち泰山は林放に如かずと謂えるか|「論語」八佾第三06
※季氏の非礼を正すことができるか孔子から尋ねられますができないと答えています。やや消極的な印象を受けます。
其の仁を知らざるなり|「論語」公冶長第五08
※孔子の人物評では、千戸の集落の長官や、百乗の領地を持つ大夫の家の家老なら務まる。
以て爾が鄰里郷党に与えんか|「論語」雍也第六03
求や芸あり。政に従うに於て何か有らん|「論語」雍也第六06
※多才な人物であり、政治を担当することに問題ないと評価されている。
今女は画れり|「論語」雍也第六10
※やる前から自分に限界を作っていると孔子から指導、励まされている。
仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん|「論語」述而第七14
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「政事には冉有・季路」
冉有・子貢侃侃如たり|「論語」先進第十一12
※孔子が弟子に囲まれて楽しそうな様子です。
吾が徒に非ざるなり|「論語」先進第十一16
※季氏に加担してしまったことを孔子が弟子に伝えています。
聞くままに斯れ諸を行わんか|「論語」先進第十一21
※聞いたことをすぐ実行するように言われています。
道を以て君に事え、不可なれば則ち止む|「論語」先進第十一23
顔淵(がんえん)回(かい)
姓は顔、名は回、字は子淵(しえん)。孔子より30歳若い。孔子よりも早く、三十歳(一説では四十歳とも)で死んだ。秀才で、門人の中で一番の学問好き。孔子の第一の弟子ともいわれる。
もの静かだが孔子の教えを充分に実践しており、一を聞いて十を知る孔子もかなわない部分を持つ秀才。
吾回と言うに、終日違はざること愚なるが如し|「論語」為政第二09
※孔子の前ではもの静かだが、孔子の教えを充分に実践していると評価されている。
※この章句では、孔子から親しみを込めて名で呼ばれている。
如かざるなり。吾と女と如ざるなり|「論語」公冶長第五09
※一を聞いて十を知る。孔子もかなわない部分があると認めています。
※この章句では、孔子から親しみを込めて名で呼ばれている。
顔回なる者有り学を好めり|「論語」雍也第六02
※孔子は弟子の中で学問を好む者として哀公(あいこう)に答えているが、同時に彼の死を伝え彼以上に学問を好む者はいないと伝えている。
回や、其の心三月仁に違わず|「論語」雍也第六05
※孔子は常に「仁」の中に居ると評価している。
回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や|「論語」雍也第六09
※孔子は顔淵の賢明さを褒めている。
子顏淵に謂いて曰わく、之を用うれば則ち行い、之を舍つれば則ち藏る。唯我と爾と是れ有るかな|「論語」述而第七10
※任用されれば政治を正しく行い、退任すれば世の中からかくれるように静かにできると評価されている。
之れ語げて惰らざる者は、其れ回なるか|「論語」子罕第九20
※伝え知らせたことを怠らずに実践することができたのは彼だけだと評価されている。
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓」
回や、我を助くる者に非ざるなり|「論語」先進第十一03
※孔子のことばをすぐに理解してしまうことから、孔子自身の学びにならないと評価されている。
顔回なる者あり学を好む|「論語」先進第十一06
※季康子に弟子の中で学問を好む者を尋ねられた孔子が、顔回と答えている。
才あるも才あらざるも、亦各ゝ其の子と言うなり|「論語」先進第十一07
※顔淵の父の願いを、賢いと賢くないとに関わらず親の思いは同じだと言っている。
天予を喪ぼせり|「論語」先進第十一08
※孔子が顔淵の死をただただ悼んでいます。
夫の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせん|「論語」先進第十一09
※慟哭する孔子の様子を伝える章句です。
予は視ること猶子のごとくするを得ず|「論語」先進第十一10
※顔淵の葬式を終えた孔子の気持ちを表した章句です。
億れば則ち屢中る|「論語」先進第十一18
※顔淵と子貢を比較した章句です。
子在す。回何ぞ敢て死せん|「論語」先進第十一22
※孔子よりも先に死ぬわけにはいかないという顔淵の深い情愛を感じます。
顔路(がんろ)
顔回の父。孔子の最初の弟子の一人であったらしい。
才あるも才あらざるも、亦各ゝ其の子と言うなり|「論語」先進第十一07
※顔淵の父の願いを、賢いと賢くないとに関わらず親の思いは同じだと言っている。
樊遅(はんち)
姓は樊、名は須、字は子遅(しち)。孔子より34歳若い。孔子が移動に使う牛車の御者(運転手)を務めた。真面目な人柄で論語にもたびたび登場する。
孟懿子孝を問う。子曰わく、違うこと無し|「論語」為政第二05
仁者は難きを先にして獲ることを後にす、仁と謂うべし|「論語」雍也第六20
子游(しゆう)
姓は言、名は偃(えん)、字は子游。武城の町の宰(長官)となる。孔子より四十五歳若い。
敬せずんば何を以て別たんや|「論語」為政第二07
朋友に數すれば、斯に疏んぜらる|「論語」里仁第四26
行不由径、非公事、未嘗至於偃之室也|「論語」雍也第六12
※武城の長官になったとき、補佐役の人材登用について孔子から尋ねられている。
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「文学には子游・子夏」
子張(しちょう)
姓は顓孫(せんそん)、名は師(し)、字は子張(しちょう)。孔子より四十八歳若い。
言に尤寡なく行いに悔寡なければ、禄其の中に在り|「論語」為政第二18
其れ或いは周を継ぐ者は、百世と雖も知るべきなり|「論語」為政第二23
未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん|「論語」公冶長第五19
過ぎたるはなお及ばざるがごとし|「論語」先進第十一15
※子張はやり過ぎだと評価されています。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
柴や愚、参や魯、師や辟、由や喭|「論語」先進第十一17
迹を踐まず。亦室に入らず|「論語」先進第十一19
※善人の道について尋ねています。
子羔(しこう)
髙柴(こうさい)、姓は髙(こう)、名は柴(さい)、字は子羔・子髙(しこう)・子皐(しこう)・季皐(きこう)。孔子より三十歳(また四十歳)若い。
是の故に夫の佞者を悪む|「論語」先進第十一24
※子路によって費の国の官吏に任用された。
孟懿子(もういし)
仲孫(孟孫)氏の第五世、第九代目。名は何忌。懿は贈り名。魯(ろ)の大夫。魯は孔子が生まれ育った国。大夫は周代から春秋戦国時代にかけて領地を持った貴族(王族、公族を含む)のことを呼んだ。彼らは国政に参加していた。論語によく登場する孟武伯(もうぶはく)の父。
孟懿子孝を問う。子曰わく、違うこと無し|「論語」為政第二05
孟武伯(もうぶはく)
孟懿子(もういし)の子。名は彘(てい)。武は贈り名。伯は字で長子(第一子)のこと。魯(ろ)の大夫。魯は孔子が生まれ育った国。大夫は周代から春秋戦国時代にかけて領地を持った貴族(王族、公族を含む)のことを呼んだ。彼らは国政に参加していた。ぜいたく、わがままな振る舞いが多く、健康には恵まれなかった。
父母は唯だ其の疾を之れ憂う|「論語」為政第二06
其の仁を知らざるなり|「論語」公冶長第五08
孟敬子(もうけいし)
魯の大夫。名は捷(しょう)、字は儀(ぎ)。敬子(けいし)は贈り名。孟武伯(もうぶはく)の子。
哀公(あいこう)
魯の君主。名は蔣。十歳で即位した。孔子を重用した定公の後に即位して二十七年在位した。
直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、則ち民服す|「論語」為政第二19
成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず|「論語」八佾第三21
顔回なる者有り学を好めり|「論語」雍也第六02
季康子(きこうし)
魯の大夫。季氏(季孫氏)の七代目。名は肥、贈り名は康。孔子の門人、冉求、子貢、子路、樊遅らを任用し、冉求の求めで孔子を招いたりもした。
之に臨むに荘を以てすれば則ち敬す|「論語」為政第二20
再拝して之を送る|「論語」郷党第十11
顔回なる者あり学を好む|「論語」先進第十一06
季子然(きしぜん)
魯の大夫、季平子の子。
道を以て君に事え、不可なれば則ち止む|「論語」先進第十一23
※孔子に、子路、冉有は大臣と言うべきかと問い、孔子から皮肉られる。
季氏(きし)
季孫氏(きそんし)。魯の大夫、三桓(孟孫氏、叔孫氏、季孫氏)のひとつ。魯の襄公のころから大臣職を独占し、襄公を無視して権力を欲しいままにした。
是をも忍ぶべくんば、孰れをか忍ぶべからざらんや|「論語」八佾第三01
嗚呼、曾ち泰山は林放に如かずと謂えるか|「論語」八佾第三06
善く我が為に辞せよ|「論語」雍也第六07
三家者(さんかしゃ)
三桓(さんかん)。魯の大夫、孟孫氏・叔孫氏・季孫氏の三氏の家。
林放(りんぽう)
魯の人。おそらく孔子の弟子だが、司馬遷の史記には記述がないそうです。
礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ|「論語」八佾第三04
嗚呼、曾ち泰山は林放に如かずと謂えるか|「論語」八佾第三06
王孫賈(おうそんか)
衛(えい)の国の大夫。霊公(れいこう)に仕えて軍を統率した名臣。
定公(ていこう)
魯の君主。孔子が仕えた。
君は臣を使うに礼を以てし、臣は君に事うるに忠を以てす|「論語」八佾第三19
宰我(さいが)宰予(さいよ)予(よ)
宰我(さいが)。孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我(しが)。弁論にすぐれていた一方、日中に昼寝をして孔子を嘆かせた。
成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず|「論語」八佾第三21
今吾人に於けるや、其の言を聴きて其の行いを観る|「論語」公冶長第五10
※この章句で、昼寝をして孔子を嘆かせた。
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「言語には宰我・子貢」
管仲(かんちゅう)
大夫(臣下)として桓公(かんこう)を助けた。「管子」七十八編を記した。孔子より170年、180年以前の人。
管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん|「論語」八佾第三22
公冶長(こうやちょう)
姓は公冶、名は長または萇。字は子長または子芝。鳥の言葉を理解したといい、それが原因で投獄された。孔子はその人柄を信じて自分の娘を嫁がせた。
南容(なんよう)
姓は「南宮」(なんきゅう)、名は括・适(かつ)または縚・韜(とう)、字は子容(しよう)。南容は南宮子容の略。孔子の門人。
子、南容を謂う|「論語」公冶長第五02
南容白圭を三復す|「論語」先進第十一05
※詩経の一節をくり返し口ずさむ人柄から、孔子の兄の娘を嫁がせたといいます。
子賤(しせん)
姓は宓(ふく)、名は不斉(ふせい)、字は子賤(しせん)。孔子より四十九歳若い。
仲弓(ちゅうきゅう)「雍」(よう)
姓は冉(ぜん)、名は雍(よう)、字は仲弓(ちゅうきゅう)。孔子より二十九歳若い門人。李氏の宰になった。
或ひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。|「論語」公冶長第五05
※この章句により寡黙な様子が伝わる。
子曰わく、雍の言然り|「論語」雍也第六01
※諸侯として政治を任せてもいい人物だと孔子から評価されている。
山川其れ諸を舎てんや|「論語」雍也第六04
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓」
漆彫開(しっちょうかい)
姓は漆彫、名は開・啓、字は子開(子啓)・子若。孔子より十一歳若い。孔子から能力を買われ仕官を打診されてもなお、まだ充分ではないと言って孔子をよろこばせた。
吾斯を之れ未だ信ずること能わず|「論語」公冶長第五06
※孔子から能力を買われ仕官を打診されてもなお、まだ充分ではないと言って孔子をよろこばせた。
公西華(こうせいか)赤(せき)子華(しか)
姓は公西(こうせい)、名は赤(せき)、字は子華(しか)。孔子より四十二歳若い。儀式・礼法に通じ、孔子が亡くなったときの葬儀委員長を務めたという。
其の仁を知らざるなり|「論語」公冶長第五08
※孔子の人物評では、礼服を着て朝廷に立ち、お客様の応対を任せることができる。
以て爾が鄰里郷党に与えんか|「論語」雍也第六03
弟子学ぶこと能わざるなり|「論語」述而第七33
聞くままに斯れ諸を行わんか|「論語」先進第十一21
※兄弟子への孔子の返答の違いを素直に尋ねています。
申棖(しんとう)棖(とう)
姓は申、名は棖、また党・棠・続、字は周。章句から孔子の弟子だと考えられる。剛く見える人物だったが、孔子は本当に強いひとと呼べるだろうかといった。
仲叔圉(ちゅうしゅくぎょ)孔文子(こうぶんし)
姓は孔、名は圉、贈り名は文。衛の国の大夫。贈り名として「文」は最上の文字。
孔文子は何を以て之を文と謂うや|「論語」公冶長第五15
※子貢は彼がなぜ最上の贈り名である「文」を得たのか、孔子に尋ねている。
公孫僑(こうそんきょう)子産(しさん)
鄭(てい)の国の大夫。姓は公孫(こうそん)、名は僑(きょう)・子美(しび)、子産は字。優れた政治家。教養人とたたえられる。簡公(かんこう)・定公(ていこう)・献公(けんこう)・声公(せいこう)の四代に仕え、晋(しん)・楚(そ)の両国に挟まれた鄭の国力の充実に尽力した。
晏平仲(あんへいちゅう)
姓は晏、名は嬰(えい)、字は仲、贈り名は平。斉の大夫。霊公(れいこう)、荘公(そうこう)、景公(けいこう)の三代に仕えた。
臧文仲(ぞうぶんちゅう)
魯の大夫。姓は臧孫(ぞうそん)、名は辰(しん)、字は仲(ちゅう)、贈り名は文(ぶん)。荘公(そうこう)、閔公(びんこう)、僖公(きこう)、文公(ぶんこう)の四代にわたって魯の大夫でした。
令尹子文(れいいんしぶん)
姓は闘(とう)、名は穀於菟(とうおと)。字は子文。春秋時代の初め、楚の令尹(宰相)を三度務め、三度辞めさせられたという。
崔子(さいし)
姓は崔、名は杼(ちょ)。斉(せい)の丁公(ていこう)の子孫で崔武子(さいぶし)ともいう。「武」は贈り名。
陳文子(ちんぶんし)
姓は陳・田(でん)、名は須無(しゅむ)。文は贈り名。斉の大夫。
甯武子(ねいぶし)
衛(えい)の成公(せいこう)の時の大夫。姓は甯、名は兪(ゆ)、武は贈り名。
其の愚は及ぶべからざるなり|「論語」公冶長第五21
※敢えて愚人の態度を取って、衛の成公を助けて国難を乗り越えたと、孔子に評価されている。
伯夷(はくい)|叔斉(しゅくせい)
伯夷(はくい) … 名は允(いん)
叔斉(しゅくせい) … 名は致(ち)。殷末、孤竹という小国の公子で、伯夷の弟。
舊悪を念わず。怨是を用て希なり|「論語」公冶長第五23
※清廉潔白な人柄であるだけでなく、寛容な人柄を孔子が評価している。
仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん|「論語」述而第七14
微生高(びせいこう)
姓は微生、名は高。
諸を其の鄰に乞うて之を与う|「論語」公冶長第五24
※融通がきかないほどの正直者だと伝えられていますが、その人柄について孔子の評価がこの章句です。
左丘明(さきゅうめい)
姓は左丘、名は明。孔子の先輩で、孔子の尊敬する人だったらしい。
左丘明之を恥ず、丘も亦之を恥ず|「論語」公冶長第五25
※ことば巧みでいい顔ばかりしてへりくだり過ぎることを恥じ、怨みを持ったまま友だち付き合いをすることを恥じた人物。孔子も同じだと語っています。
丘(きゅう)
孔子自身。姓は孔、名は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。仲は次男のこと。
左丘明之を恥ず、丘も亦之を恥ず|「論語」公冶長第五25
丘の学を好むに如かざるなり|「論語」公冶長第五28
吾行うとして二三子と与にせざる者無し。是れ丘なり|「論語」述而第七23
苟くも過有れば、人必ず之を知る|「論語」述而第七30
丘の祈ること久し|「論語」述而第七34
再拝して之を送る|「論語」郷党第十11
由の瑟、奚為れぞ丘の門に於てせん|「論語」先進第十一14
子桑伯子(しそうはくし)
よく分からない人物。集注に魯の人とある。
子曰わく、雍の言然り|「論語」雍也第六01
※威風堂々とした人物だと評されている。
原思(げんし)
姓は原(げん)、名は憲(けん)、字は子思(しし)。孔子より三十六歳若い。孔子が魯の司寇(しこう・長官)になったとき執事となった。貧しかったらしい。(論語集註)
以て爾が鄰里郷党に与えんか|「論語」雍也第六03
※孔子からの俸禄が多すぎると辞退するような清廉なひとだったようだ。
閔子騫(びんしけん)
姓は閔、名は損(そん)、字は子騫。孔子より15歳若い。
善く我が為に辞せよ|「論語」雍也第六07
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓」
孝なるかな閔子騫|「論語」先進第十一04
※当時の世間で閔子騫が称賛されていた。
閔子騫側に侍す、誾誾如たり|「論語」先進第十一12
※孔子が弟子に囲まれて楽しそうな様子です。
夫の人は言わず、言えば必ず中ること有り|「論語」先進第十一13
※無口だが発言が的確だと言われている。
冉伯牛(ぜんはくぎゅう)伯牛(はくぎゅう)
姓は冉(ぜん)、名は耕(こう)、字は伯牛(はくぎゅう)。孔子より七歳若い。
斯の人にして而も斯の疾あるや|「論語」雍也第六08
我に陳・蔡に従う者は、皆門に及ばざるなり|「論語」先進第十一02
※「四科十哲」の出典。「徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓」
澹台滅明(たんだいめつめい)
姓は澹台、名は滅明、字は子羽。魯の武城の人。孔子より三十九歳若い。外見が醜男(ぶおとこ)であったらしいが、公正な人物であった。
孟之反(もうしはん)
姓は孟、名は子側(しそく)、字は之反。
孟之反伐らず|「論語」雍也第六13
※公正な人物だと孔子は語っている。
祝鮀(しゅくだ)
名は鮀。祝は宗廟の祭官の職。字は子魚。衛の大夫。口才があった。
難いかな今の世に免れんこと|「論語」雍也第六14
※口才があったと伝えている。
宋朝(そうちょう)
宋の公子。名は朝。美男であった。
難いかな今の世に免れんこと|「論語」雍也第六14
※美男であったと伝えている。
南子(なんし)
衛の霊公の夫人。品行が悪いと評判であった。
周公(しゅうこう)
周公旦。名は旦(たん)。周の文王の子、武王の弟。武王の子の成王を補佐して、制度や儀式・礼楽などを定めたが自らは天子の位に即こうとしなかった。魯の国の始祖。孔子の理想とする人物。
久しきかな、吾復夢に周公を見ず|「論語」述而第七05
如し周公の才の美有りとも|「論語」泰伯第八11
衛君(えいくん、えいのきみ)
名は輒(ちょう)。出公(しゅっこう)といい、出公輒と呼ぶ。衛の霊公の孫であり、荘公蒯聵(しょうこうかいがい)の子。蒯聵が母の南子の品行の悪いのを恥じて殺そうとしたが失敗し、衛を出て宋から晋に亡命した。間もなく霊公が死に、輒が即位して出公と称したが父の蒯聵がこれを認めず、以後16年にわたり親子の争いが続き、出公輒はついに魯に逃れた。
葉公(しょうこう)
姓は沈(ちん)、名は諸梁(しょりょう)、字は子高(しこう)。楚の国の重臣で葉(しょう)地方の長官。自分で「公」を僭称していた。賢明な政治家だったが、孔子をあまり尊敬していなかったらしい。
桓魋(かんたい)
姓は向(しょう)、名は魋(たい)。桓公の子孫なので、桓魋ともいう。
孔子が宋の国で、門人たちと大樹の下で礼を習っていた時、桓魋は孔子を殺そうとして大樹を引き倒した。
天徳を予に生せり。桓魋其れ予を如何にせん|「論語」述而第七22
※上記、心配する門人に向かって孔子が信念を語った。
司敗(しはい)
陳の国の官名。他国では司寇(司法長官)という。陳司敗(ちんしはい)という人名とも。定説はない。
昭公(しょうこう)
魯(ろ)の君主。名は稠(ちょう)。襄(じょう)公の子。大夫の李氏を討とうとして失敗し斉の国へ逃れ晋の国で死んだ。
呉孟子(ごもうし)
魯の昭公の夫人。魯と呉は同じく姫を姓とする。この時代、周の制度では同性同士の結婚は認められなかったが昭公は呉から妃を迎えた。そこで本来は呉姫(ごき)とすべきだが、昭公は非礼を避けて「孟子」と称した(孟は長女の意)。魯の人々は呉孟子と呼んだ。
昭公は非難され、いろいろと問題が起きた。
※「同姓」(どうせい) … 魯も呉も周室(周王朝)の出であって「姫」(き)姓であるということ。
巫馬期(ふばき)
姓は巫馬、名は施(し)、字は子期(しき)または子旗(しき)。孔子の弟子。孔子より三十歳若い。
泰伯(たいはく)
太伯とも書く。殷代末期の周の太王の長子で、下に弟の虞仲(ぐちゅう)、季歴(きれき)がいた。季歴の子が昌(しょう)で、後に周の文王(ぶんのう)となる。泰伯は優秀の孫の昌に国を継がせたいという太王の意を察し、虞仲とともに南方に逃れて、季歴に、次いで昌に地位を譲った。
堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う)
伝説上の天子、帝王。舜は尭から禅譲[帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること]した。禹は舜に推されて王となり、夏王朝を開いたとされる。
何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり|「論語」雍也第六28
巍巍乎たり。舜禹の天下を有てるや。|「論語」泰伯第八18
文王(ぶんのう)
名は昌(しょう)。周の王。周の道徳文化の創始者とされ、孔子がもっとも尊敬した人物。
鯉(り)
孔子の一人息子。名は鯉(り)、字は伯魚(はくぎょ)。
才あるも才あらざるも、亦各ゝ其の子と言うなり|「論語」先進第十一07
髙柴(こうさい)、柴(さい)
姓は髙、名は柴、字は子羔(しこう)・子高・子皐・季皐。孔子より三十歳(また四十歳)若い。