魯の大夫・季文子は、三度も重ねて熟考した後、実行にうつした。孔先生がそれを聞いておっしゃった、そこまで熟考せずとも、せいぜい一度考えて重ねて確認する程度で充分なのではないかと。|「論語」公冶長第五20
【現代に活かす論語】
時間をかけて熟考に熟考を重ねた上で行動するより、考えそして確認して行動に移すくらいでも充分なのではないか。(行動に移した成果をまた学びに活かす好循環を心がけたい。)
『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
04:40 「公冶長第五」前半16-28 素読
2021.8.2収録
【解釈】
季文子(きぶんし) … 魯(ろ)の大夫。季孫氏の三代目。名は行父(こうほ)、文子は贈り名。魯の文公(ぶんこう)・宣公(せんこう)・成公(せいこう)・襄公(じょうこう)の四代に仕えて信頼を集めた。「論語」の登場人物|論語、素読会
季文子、三たび思いて而る後に行う。子之を聞きて曰わく、再びせば斯れ可なり。|「論語」公冶長第五20
季文子、三思而後行。子聞之曰、再斯可矣。
「三思」(みたびおもいて)は熟考すること。「再斯可矣」(ふたたびせばこれかなり)は三思に対して(再びせば)そこまで塾講師なくてもの意。
魯の大夫・季文子は、三度も重ねて熟考した後、実行にうつした。孔先生がそれを聞いておっしゃった、そこまで熟考せずとも、せいぜい一度考えて重ねて確認する程度で充分なのではないかと。
【解説①】
実行に移してはいるものの、熟考に熟考を重ねていることを、そこまで考えなくても充分なのではないかと孔子は言います。
孔子の本意はどこにあるのでしょうか。常に学びと実践が同時に進められることを重要視する孔子の学び舎において、熟考して後に行動する季文子についての評判を聞いて、それを肯定するのではなく熟考の程度を批評することで、門人に実践の大切さだけでなく、学びと実践のバランスについて伝えようとしたのではないかと思います。中庸という考え方も頭をよぎるのです。
「論語」参考文献|論語、素読会
公冶長第五19< | >公冶長第五21
【原文・白文】
季文子、三思而後行。子聞之曰、再斯可矣。
(季文子、三たび思いて而る後に行う。子之を聞きて曰わく、再びせば斯れ可なり。)
【読み下し文】
季文子(きぶんし)、三(み)たび思(おも)いて而(しか)る後(のち)に行(おこな)う。子(し)之(これ)を聞(き)きて曰(のたま)わく、再(ふたた)びせば斯(こ)れ可(か)なり。
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