論語、素読会

堯舜も其れ猶諸を病めり|「論語」憲問第十四44

子路が君子について尋ねた。孔先生がおっしゃった、自ら徳を修めて人を敬うことだと。(子路が)尋ねた、これだけでしょうかと。(孔先生が)おっしゃった、自ら徳を修めて人を落ち着かせることだと。さらに尋ねた、これだけでしょうか。(孔先生が)おっしゃった、自ら徳を修めて多くの人民を落ち着かせることだ。自ら徳を修めて多くの人民を落ち着かせることについては、尭舜のような聖天子でさえも憂えていたのだよと。|「論語」憲問第十四44

【現代に活かす論語】
組織のトップ、リーダーは、自ら徳を重ねた上で、部下を敬い、部下たちが安心して落ち着くようにすることです。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

14:10「憲問第十四」後半22 – 46 素読
2024.2.8収録

【解釈】

子路(しろ) … 季路(きろ)由(ゆう)仲由(ちゅうゆう)。姓は仲(ちゅう)、名は由(ゆう)、字は子路(しろ)・季路(きろ)。孔子より九歳若い。孔子のボディガード役を果たした。「論語」の登場人物|論語、素読会

堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う) … 伝説上の天子、帝王。舜は尭から禅譲[帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること]した。禹は舜に推されて王となり、夏王朝を開いたとされる。「論語」の登場人物|論語、素読会

子路君子を問う。子曰わく、己を修めて以て敬す。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己を修めて以て人を安んず。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己を修めて以て百姓を安んず。己を修めて以て百姓を安んずるは、堯舜も其れ猶諸を病めり。|「論語」憲問第十四44
子路問君子。子曰、修己以敬。曰、如斯而已乎。曰、修己以安人。曰、如斯而已乎。曰、修己以安百姓。修己以安百姓、堯舜其猶病諸。

「君子」(くんし)は徳の高いりっぱな人。「修」(おさめる)は道を学んで善や徳を身につける。「敬」(けいす)は尊敬する、うやまう。「斯」(かく)はこれ、この、ここ。「已」(のみ)は…だけ。「安」(やすんずる)は落ち着かせる。「百姓」(ひゃくせい)は多くの人民。「堯舜」(ぎょうしゅん)は古代の聖天子。堯帝と舜帝の併称、また聖天子のたとえ。「病」(やむ)は心配する、憂える。

子路が君子について尋ねた。孔先生がおっしゃった、自ら徳を修めて人を敬うことだと。(子路が)尋ねた、これだけでしょうかと。(孔先生が)おっしゃった、自ら徳を修めて人を落ち着かせることだと。さらに尋ねた、これだけでしょうか。(孔先生が)おっしゃった、自ら徳を修めて多くの人民を落ち着かせることだ。自ら徳を修めて多くの人民を落ち着かせることについては、尭舜のような聖天子でさえも憂えていたのだよと。

【解説】

孔子の学び舎ではみな「君子」を目指しています。論語を読んでいると、孔子も弟子たちもそれぞれ君子になるべく研鑽を続けていることが伝わってきます。私は、「君子」を人の上に立つ立派な人・リーダーと解釈していますが、この章句で孔子は、特に為政者、王やその王に代わって政事を行う人の条件について答えています。
孔子が弟子と会話をする際、それぞれの弟子に対して伝え方や内容を変えます。それが孔子を教育者であると考える理由です。子路は軍事面に才能があると孔子が認めており、少し先走ったり性急な面があります。この子路に対して「人を敬す」「人を安んず」「百姓を安んず」そして最後に「尭舜も悩んでいたのだよ」と答えていることに注目すると、この章句が味わい深くなるはずです。
まず、子路を自分に置き換えてみましょう。「人を敬す」と孔子に返されたとき、どんな状況を想像できたでしょうか。対象は身近な人だったでしょうか、その人は敬うことができるような人物でしょうか。子路が素晴らしいのは、にわかに理解できなかったことに気付き、これだけでしょうかと尋ねることができるところです。そのおかげでわれわれも理解を進めることができます。「人を安んず」と孔子は返します。私の場合はその人が家族であると想像し、安心させ落ち着かせるような自分自身の行いに考えが及びました。しかし、主題は為政者としての「君子」の条件です。子路は気付きました、まだ完全には理解できないと。「百姓を安んず」と孔子に返されて、私ははっとしました。孔子は子路の顔色から変化を感じ取ったのかも知れません。孔子の時代、伝説の聖天子(立派な王)とされている尭舜を引き合いに出して、彼らでさえも、多くの人民を安心させ落ち着かせることに苦慮していたのだと伝えます。「人を敬す」「人を安んず」の「人」とは自分の好むと好まざるに関わらない、身近で面識あるなしに限らない人、人々を指しているのだということ、為政者であればその意識を常に持つべきであると孔子は伝えます。
「君子」は常に一対一だけでなく、一対多数を意識すべきである。そんなメッセージもこの章句には込められているのです。
孔子がこの章句で伝える「君子」の条件は、家庭にあっても、小さなコミュニティにあってもその先のまだ会ったことのない人々にまで思いを馳せながら、自己の修養をできるかどうかということ、そんな広く先を見越した視野をもって日々を過ごすことであると、あらためて思います。


「論語」参考文献|論語、素読会
憲問第十四43< | >憲問第十四45


【原文・白文】
 子路問君子。子曰、修己以敬。曰、如斯而已乎。曰、修己以安人。曰、如斯而已乎。曰、修己以安百姓。修己以安百姓、堯舜其猶病諸。
<子路問君子。子曰、脩己以敬。曰、如斯而已乎。曰、脩己以安人。曰、如斯而已乎。曰、脩己以安百姓。脩己以安百姓、堯舜其猶病諸。>

(子路君子を問う。子曰わく、己を修めて以て敬す。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己を修めて以て人を安んず。曰わく、斯くの如きのみか。曰わく、己を修めて以て百姓を安んず。己を修めて以て百姓を安んずるは、堯舜も其れ猶諸を病めり。)
【読み下し文】
 子路(しろ)君子(くんし)を問(と)う。子(し)曰(のたま)わく、己(おのれ)を修(おさ)めて以(もっ)て敬(けい)す。曰(い)わく、斯(か)くの如(ごと)きのみか。曰(のたま)わく、己(おのれ)を修(おさ)めて以(もっ)て人(ひと)を安(やす)んず。曰(い)わく、斯(か)くの如(ごと)きのみか。曰(のたま)わく、己(おのれ)を修(おさ)めて以(もっ)て百姓(ひゃくせい)を安(やす)んず。己(おのれ)を修(おさ)めて以(もっ)て百姓(ひゃくせい)を安(やす)んずるは、堯舜(ぎょうしゅん)も其(そ)れ猶(なお)諸(これ)を病(や)めり。


「論語」参考文献|論語、素読会
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