論語、素読会

子張明を問う|「論語」顔淵第十二06

子張がものごとを明確にすること(正しく判断すること)について尋ねた、孔先生がおっしゃった、じわじわとしみこむような人を陥れるような悪口、肌身が切りつけられるような訴えに、動かされることがなければ、正しく判断しているというべきである。じわじわとしみこむような人を陥れるような悪口、肌身が切りつけられるような訴えに、動かされることがなければ、先々遠くまで見通せるということができる。|「論語」顔淵第十二06

【現代に活かす論語】
じわじわと身に応えるような悪口、肌身が切りつけられるような訴えに、心動かされることがなければ、ものごとを正しく判断しているというべきである。そして先々まで見通せるということができる。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

08:45「顔淵第十二」前半01 – 13 素読
2023.04.28収録

【解釈】

子張(しちょう) … 姓は顓孫(せんそん)、名は師(し)、字は子張(しちょう)。孔子より四十八歳若い。「論語」の登場人物|論語、素読会

子張明を問う。子曰わく、浸潤の譛、膚受の愬、行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譛、膚受の愬、行われざるを、遠とも謂うべきのみ。|「論語」顔淵第十二06
子張問明。子曰、浸潤之譛、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譛、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣。

「明」(みん)は、ものがよく見えるさま。「浸潤」(しんじゅん)はじわじわと効果をあらわす。「譛」(そしり)は人を陥れるような訴え。「膚受之愬」(ふじゅのうったえ)は肌身が切りつけられるような痛切な訴え。「遠」(えん)は長期の、遠大な。

子張がものごとを明確にすること(正しく判断すること)について尋ねた、孔先生がおっしゃった、じわじわとしみこむような人を陥れるような悪口、肌身が切りつけられるような訴えに、動かされることがなければ、正しく判断しているというべきである。じわじわとしみこむような人を陥れるような悪口、肌身が切りつけられるような訴えに、動かされることがなければ、先々遠くまで見通せるということができる。

【解説】

「明」と「遠」とは見通すという意味で共通した表現です。ものごとを明らかにして正しく判断していくことを尋ねられた孔子は、若い子張が陥りやすい、心を揺さぶられるようなことば、迷わされそうなことばに、動かされないように惑わされなければ正しく判断できると助言しています。またそれができれば、遠くまで見通せるとも勇気づけているのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
顔淵第十二05< | >顔淵第十二07


【原文・白文】
 子張問明。子曰、浸潤之譛、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譛、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣。
<子張問明。子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣>

(子張明を問う。子曰わく、浸潤の譖、膚受の愬、行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざるを、遠とも謂うべきのみ。)
【読み下し文】
 子張(しちょう)明(めい)を問(と)う。子(し)曰(のたま)わく、浸潤(しんじゅん)の譖(そしり)、膚受(ひじゅ)の愬(うったえ)、行(おこな)われざるは、明(めい)と謂(い)うべきのみ。浸潤(しんじゅん)の譖(そしり)、膚受(ひじゅ)の愬(うったえ)、行(おこな)われざるを、遠(えん)とも謂(い)うべきのみ。


「論語」参考文献|論語、素読会
顔淵第十二05< | >顔淵第十二07


※Kindle版