先生が、息子の伯魚におっしゃって言うには、お前は、詩経の中の周南・召南を学んだのかと。人として周南・召南を学ばなければ、それは壁の前に正対して(どうしたらいいか分からずに)ただ立っているようなものだよ。|「論語」陽貨第十七10
【現代に活かす論語】
先人の(誰もが知っているような)大切な教えを学ばなければ、壁の前にただ直立して、前にも進めず、中を覗くこともできないのと同じことです。
【解釈】
鯉(り)、伯魚(はくぎょ) … 孔子の一人息子。名は鯉(り)、字は伯魚(はくぎょ)。「論語」の登場人物|論語、素読会
周南(しゅうなん)・召南(しょうなん)
国風のはじめの二巻、周南十一篇及び召南十四篇を合わせて二南と呼ぶ。 ー中略ー 鄭玄の「周南召南譜」によると、周・召とは禹貢の雍州の岐山の陽(みなみ)の地名であり、周の先公の大王という者が、狄の難を避けて始めてここに遷り王業を建てた。その後文王の時代になると、南国の江・漢・汝のあたりの諸侯まで従えるようになり、天下の三分の二は文王の徳治政治に帰することになる。文王は後に豊の地に邑(みやこ)を作るkこととなり、それまでの岐邦の地を周と召の二つに分け、周公旦・召公奭の采地となして先公の教えを守らせた、という。 ー中略ー 毛序の呪縛から離れてこの二南を読み返せば、そこにはすべてを文王の徳化には結びつけられない、もっと古い時代の習俗が歌われていることがわかる。「周」「召」が二人の偉人に結びつけられた地名であることは確かであろうが、その他の点について漢儒の節には賛同しがたい。
子、伯魚に謂いて曰わく、女、周南・召南を為びたるか。人にして周南・召南を為ばずんば、其れ猶正しく牆に面して立つがごときか。|「論語」陽貨第十七10
子謂伯魚曰、女為周南召南矣乎。人而不為周南召南、其猶正牆面而立也与。
「子」(し)は先生、師に対する尊称。ここでは孔子のこと。「女」(なんじ)はあなた。「為」(まなぶ)は学習する。「猶」(なお)はAはBと同じである、AはちょうどBのようである。「牆」(かき)はれんがや石で造成した障壁や囲い、へい、かき。「牆面」はへいに面して立つ、向こうが何も見えない意から、無学・無芸のたとえ。
先生が、息子の伯魚におっしゃって言うには、お前は、詩経の中の周南・召南を学んだのかと。人として周南・召南を学ばなければ、それは壁の前に正対して(どうしたらいいか分からずに)ただ立っているようなものだよ。
【解説】
文献によれば、鄭玄(ていげん・後漢末の儒学者)による、周南・召南(二南)は文王「論語」の登場人物|論語、素読会 の徳政を表したものであるという解釈を、朱子なども採用しているが、必ずしもそうと断言することはできないといいます。それよりも古い時代の習俗など、孔子が憧れる美しく統治された周代に伝わっていた詩も多く含まれているという解釈を私は支持します。
孔子は他の章句でも周南(の中の一句「関雎」)に触れています。「孔先生がおっしゃった、音楽師の長官、摯(し)が詩経の四始を演奏したが、特に関雎は美しくりっぱで耳からあふれ出るようだった。|「論語」泰伯第八15」この章句から分かることは、関雎は音楽と一緒に唱われるものであり、またその音韻の響きは美しいものだったということです。
上記の引用では、周南は周公旦の采地であり、周公旦は孔子が生まれ育った魯の国の創建に深く関わった人物ですが、周南・召南がすべて周公旦の父の文王の徳政の影響であるという解釈は、後の漢の時代の鄭玄のものですので、こだわる必要はないと思うのです。
「論語」参考文献|論語、素読会
陽貨第十七09< | >陽貨第十七11
【原文・白文】
子謂伯魚曰、女為周南召南矣乎。人而不為周南召南、其猶正牆面而立也与。
<子謂伯魚曰、女爲周南召南矣乎。人而不爲周南召南、其猶正牆面而立也與。>
(子、伯魚に謂いて曰わく、女、周南・召南を為びたるか。人にして周南・召南を為ばずんば、其れ猶正しく牆に面して立つがごときか。)
【読み下し文】
子(し)、伯魚(はくぎょ)に謂(い)いて曰(のたま)わく、女(なんじ)、周南(しゅうなん)・召南(しょうなん)を為(まな)びたるか。人(ひと)にして周南(しゅうなん)・召南(しょうなん)を為(まな)ばずんば、其(そ)れ猶(なお)正(ただ)しく牆(かき)に面(めん)して立(た)つがごときか。
「論語」参考文献|論語、素読会
陽貨第十七09< | >陽貨第十七11