論語、素読会

今は則ち亡きかな|「論語」衛霊公第十五26

孔先生がおっしゃった、私はなお記録官が疑いが残る部分を空白にした文章にかかわったことがある。(むかしは)馬を所有する者は、ひとに貸して乗らせるということがあった。今は(そのような誠実でまじめな習慣は)なくなってしまったなぁ。|「論語」衛霊公第十五26

【現代に活かす論語】
疑問が残る記録を敢えて空白にする誠実さ、貴重な物であってもひとに貸すことのできる生真面目さ、無くならないで欲しいものです。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

08:40「衛霊公第十五」後半23 – 43素読
2024.6.17収録

【解釈】

子曰わく、吾は猶史の闕文に及ぶなり。馬有る者は、人に借して之に乗らしむ。今は則ち亡きかな。|「論語」衛霊公第十五26
子曰、吾猶及史之闕文也。有馬者、借人乗之。今則亡矣夫。

「史」(し)は史官。王の近くに控え、文章の作成や王の言行、祭祀、転貸の運行、卜筮(ぼくぜい)、医術など、国家の記録を管理する。「闕文」(けつぶん)は疑問の残る部分を空白にした文章。「及」(およぶ)はせまる、かかわる。「則」(すなわち)は…は(〜なのである)。

孔先生がおっしゃった、私はなお記録官が疑いが残る部分を空白にした文章にかかわったことがある。(むかしは)馬を所有する者は、ひとに貸して乗らせるということがあった。今は(そのような誠実でまじめな習慣は)なくなってしまったなぁ。

【解説】

文献によれば、この章句は解釈が難しいと考えられているようです。確かに何らかの捕捉無しでは、何を伝えようとしているのか分からない章句です。私が取り上げる解釈は二つです。第一は、記録官が疑わしいものを敢えて空白にしたという誠実さと、馬を所有する者がひとにその馬を貸したという真面目さ、両方とも今はなくなってしまったという解釈です。第二は、欠文のため馬を所有する者がひとに馬を貸したということの前後関係が分からないが、そのような習慣が無くなってしまった。という解釈です。
このような場合、前後の章句を確認して編者の意図を汲み取ることにしています。ひとつ前の章句は、ひとをとがめたり褒める場合は、よく考えて行うという内容です。ひとつ後は口が上手い者は徳を損ない、小さなことを我慢しなければ大きな計画をやり損なうという内容です。ここから考えるに、誠実で真面目な習慣が無くなったと考えてはどうかと思い至りました。


「論語」参考文献|論語、素読会
衛霊公第十五25< | >衛霊公第十五27


【原文・白文】
 子曰、吾猶及史之闕文也。有馬者、借人乗之。今則亡矣夫。
<子曰、吾猶及史之闕文也。有馬者、借人乘之。今則亡矣夫。>

(子曰わく、吾は猶史の闕文に及ぶなり。馬有る者は、人に借して之に乗らしむ。今は則ち亡きかな。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)は猶(なお)史(し)の闕文(けつぶん)に及(およ)ぶなり。馬(うま)有(あ)る者(もの)は、人(ひと)に借(か)して之(これ)に乗(の)らしむ。今(いま)は則(すなわ)ち亡(な)きかな。


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