論語、素読会

誰をか毀り誰をか誉めん|「論語」衛霊公第十五25

孔先生がおっしゃった、私は人に対して、誰かを責めたり、褒めたりしない。もし褒めることがあれば、(褒めるだけの人物かどうか)試した上でのことだ。これは今の一般の人々が、かつて三代の王朝の人が行うべき正しい道を行っていた、それと同じであるからだ。|「論語」衛霊公第十五25

【現代に活かす論語】
その人が置かれている環境、状況を鑑みて、褒めたり責めたりすべきです。よく吟味した上で褒めたいものです。

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00:00 章句の検討

09:20「衛霊公第十五」後半23 – 43素読
2024.6.17収録

【解釈】

子曰わく、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所の者有らば、其れ試むる所有らん。斯の民や、三代の直道にして行う所以なり。|「論語」衛霊公第十五25
子曰、吾之於人也、誰毀誰誉。如有所誉者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。

「毀」(そしる)はひとの悪口をいう、責める。「誉」(ほめる)はたたえる、賛美する。「試」(こころみる)はためしに使う。「斯民」(このたみ)はこの民、一般の人々、親しみをこめた言い方、斯人。「三代」(さんだい)は夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)の三王朝。「所以」(ゆえん)はいわれ、わけ、理由・原因を示す。「直道」(ちょくどう)は人が行うべき正しい道。

孔先生がおっしゃった、私は人に対して、誰かを責めたり、褒めたりしない。もし褒めることがあれば、(褒めるだけの人物かどうか)試した上でのことだ。これは今の一般の人々が、かつて三代の王朝の人が行うべき正しい道を行っていた、それと同じであるからだ。

【解説】

軽率にひとを責めたり褒めたりしないという章句です。褒めることがあるとしても、熟考した上で褒めるといいます。責める場合も同様だと思います。
後半の解釈が難しいです。「斯民」は孔子の時代の民、一般の人々を指していると思います。三代とは、孔子の時代の以前、夏(か)、殷(いん)、周(しゅう)のことで、孔子が手本ととしている殷、周の時代を含みます。この安寧な時代、政事の正道が行われていた時代の人々を例にしているところまではいいのですが、さて「所以」をどう解釈するのか、判断に迷います。
この章句の解釈の背景を確認してみましょう。かつて正しい政事が行われていたことで存在した正直な市井の人々の行為、悪い行為、良い行為を判断する場合に対して、政事が荒れ、世の中が荒れた孔子の時代、人々の価値観が変わってきていたのかも知れません。止むに止まれず行ってしまった行為、生き抜くために自分をよく見せようとする行為、人々の行為の真意を計るために「試」という表現を使っていると考えました。つまり、孔子の時代の人々の行いについて、時の政事の問題、彼らの行動の背景を理解した上で判断をするべきだと孔子は伝えたいのではないでしょうか。


「論語」参考文献|論語、素読会
衛霊公第十五24< | >衛霊公第十五26


【原文・白文】
 子曰、吾之於人也、誰毀誰誉。如有所誉者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。
<子曰、吾之於人也、誰毀誰譽。如有所譽者、其有所試矣。斯民也、三代之所以直道而行也。>

(子曰わく、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所の者有らば、其れ試むる所有らん。斯の民や、三代の直道にして行う所以なり。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)の人(ひと)に於(お)けるや、誰(たれ)をか毀(そし)り誰(ほ)めん。如(も)し誉(ほ)むる所(ところ)の者(もの)有(あ)らば、其(そ)れ試(こころ)むる所(ところ)有(あ)らん。斯(こ)の民(たみ)や、三代(さんだい)の直道(ちょくどう)にして行(おこな)う所以(ゆえん)なり。


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