論語、素読会

焉んぞ佞を用いん|「論語」公冶長第五05

ある人が、雍は仁者だがうまく言葉で伝えることができないと親しげに言った。孔先生がおっしゃった、どうして口が達者である必要があるか。人に口数で対抗しようとすると、しばしば人に憎まれる。仁者であるかどうかは別として、どうして口達者である必要があるだろうか。|「論語」公冶長第五05

【現代に活かす論語】
口達者である必要は無い。口数でひとに対抗しようとすればひとに憎まれることもある。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
10:45 「公冶長第五」前半01-15 素読
2021.6.30収録

【解釈】

「雍」(よう) … 仲弓(ちゅうきゅう)は、姓は冉(ぜん)、名は雍(よう)、字は仲弓。孔子より二十九歳若い門人。李氏の宰になった。
この章句により寡黙な様子が伝わる。「論語」の登場人物|論語、素読会

或ひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屢人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。|「論語」公冶長第五05
或曰、雍也仁而不佞。子曰、焉用佞。禦人以口給、屢憎於人。不知其仁、焉用佞。

「或」は、あるひと。「仁」(じん)はここでは仁者、仁の心を持つひと。仁はひとを思いやる心の中に生きるひと。『仁』とは?|論語、素読会 「佞」(ねい)は弁舌の立つこと。上手に伝えること。「焉」(いずくんぞ)はどうして〜する必要があるだろうかの意。「禦」(あたる)は当たる、ひとに口舌で対抗すること。「口給」(こうきゅう)は口数を多くすること。「屢」は(しばしば)。「憎」(にくむ)は憎まれる。「不知其仁」は仲弓が仁者であるかどうかは別としての意。知らないということではない。

ある人が、雍は仁者だがうまく言葉で伝えることができないと親しげに言った。孔先生がおっしゃった、どうして口が達者である必要があるか。人に口数で対抗しようとすると、しばしば人に憎まれる。仁者であるかどうかは別として、どうして口達者である必要があるだろうか。

【解説①】

ある人とは、孔子の門人(弟子)ではないが、仲弓のことを「雍」と名で呼んでいることから、ごく親しい人だということがうかがえます。この人は仲弓のことを仁者と認めていますが、口が達者であれば人柄も伝わりやすいと思ったのでしょうか。
これに対して、孔子は口達者である必要は無いと説きます。巧言令色鮮なし仁|「論語」学而第一03にもある通り、言いつくろったりいい顔をすることを否定しています。「焉用佞」を2回繰り返していることで印象的が増しています。
この親しい人の前で、仲弓が仁者であると明言していないことも興味深いです。「不知其仁」とは、仁者かどうか知らないというより、別問題であるというニュアンスが強いと思います。孔子にとって仁者とは常に目指すもの。孔子自身も含め仁者であると認めることは容易ではないということの現れだと感じます。

【解説②】

孔子は「仁者」であるか尋ねられると、決まって仁者かどうかは分からないといいます。話題に上った人間の人物評を敢えて避けているというより、「仁者」、「仁」がどういうものであることか言及してそれが少ない言葉で固定化することを避けているように思います。「仁」を思いやりの心と定義していますが、どんな心が思いやりなのか、どんな人物が「仁者」で思いやりの心が有るのか無いのか、孔子の言葉によって読み手がそれぞれ感じ取っていくのが論語の魅力だと思います。

或ひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屢人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。|「論語」公冶長第五05
孟武伯問う、子路仁なりや。子曰わく、知らざるなり。又問う。子曰わく、由や、千乘之国、其の賦を治めしむべきなり。其の仁を知らざるなり。求や何如。子曰わく、求や、千室の邑、百乘の家、之が宰たらしむべきなり。其の仁を知らざるなり。赤や何如。子曰わく、赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべきなり。其の仁を知らざるなり。|「論語」公冶長第五08
子張問うて曰わく、令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色無し。三たび之を已めらるれども、慍む色無し。舊令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如。子曰わく、忠なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。崔子斉の君を弑す。陳文子馬十乘有り、棄てて之を違る。他邦に至りて、則ち曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。一邦に至りて、則ち又曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。何如。子曰わく、清なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。|「論語」公冶長第五19
子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。|「論語」雍也第六28
克・伐・怨・欲行われざる、以て仁と為すべきや。子曰わく、以て難しと為すべし。仁は則ち吾知らざるなり。|「論語」憲問第十四02


「論語」参考文献|論語、素読会
公冶長第五04< | >公冶長第五06


【原文・白文】
 或曰、雍也仁而不佞。子曰、焉用佞。禦人以口給、屢憎於人。不知其仁、焉用佞。

(或ひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屢人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。)
【読み下し文】
 或(ある)ひと曰(い)わく、雍(よう)や仁(じん)にして佞(ねい)ならず。子(し)曰(のたま)わく、焉(いずく)んぞ佞(ねい)を用(もち)いん。人(ひと)に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以(もっ)てすれば、屢(しばしば)人(ひと)に憎(にく)まる。其(そ)の仁(じん)を知(し)らず、焉(いずく)んぞ佞(ねい)を用(もち)いん。

「仁」(じんにして)とも(じんなれども)とも読み下す。


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公冶長第五04< | >公冶長第五06


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