論語、素読会

能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ|「論語」雍也第六28

子貢が孔子に言った、もし広く人民に善意を施し、よく民衆を救うことができたなら、思いやりあるひと、仁者と言えるでしょうか。孔先生がおっしゃった、仁者どころではない、きっと聖人であろう。堯舜のような聖人ですらそれができないと悩んでいた。仁者は自分が立とうとするときに他人を立て、自分が成長して成し遂げたいと思うときはまず他人を成長させようとする。(自他関係なく)よく手近に自分で取り上げて比較、実践するのが、仁者になる方法である。|「論語」雍也第六28

【現代に活かす論語】
思いやりがあり情愛が深いひとになるには、自分が行動したいと思うときにまず他人の行動を助け、自分が到達したいと思うときに他人を成長させる。それが方法である。

広く人民に善意を施し、民衆を救うことができれば、その人は情愛が深く思いやりに溢れたひとといえるでしょう。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
14:00 「雍也第六」後半11-28 素読
2021.10.04収録

【解釈】

子貢(しこう) … 姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、字は子貢(しこう)。孔子より31歳若い。「論語」の中で孔子との問答がもっとも多い。言葉巧みな雄弁家で自信家だったが、孔子には聡明さを褒められ、言葉の多さを指摘されている。経済面で能力が高かったと言われている。

堯・舜(ぎょう・しゅん) … ふたりは伝説上の聖天子。理想と仰ぎ、堯舜と併称される。「論語」の登場人物|論語、素読会

子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。|「論語」雍也第六28
子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。

「如」(もし)は条件提示。「博施」(ひろくほどこす)は広く善意をほどこすこと。「能」(よく)はよく。「済」(すくう)は救う。「衆」(しゅう)は多くの人々。「何如」(いかん)はどうだろうと状態を聞く。「仁」(じん)は思いやりや情愛が深いひと。『仁』とは?|論語、素読会 「何事於仁」(なんぞじんをこととせん)は、仁者どころではない。「必也〜乎」きっと〜であろう。『仁』とは?|論語、素読会 「病」(やむ)は憂う。「達」(たっす)は到達する、成し遂げる。「近」(ちかく)は手近。「取譬」(たとえをとる)は自分で取り上げて比較する。「可」(べき)はである。「方」(みち)は方法、道、術。「已」はのみ。

子貢が孔子に言った、もし広く人民に善意を施し、よく民衆を救うことができたなら、思いやりあるひと、仁者と言えるでしょうか。孔先生がおっしゃった、仁者どころではない、きっと聖人であろう。堯舜のような聖人ですらそれができないと悩んでいた。仁者は自分が立とうとするときに他人を立て、自分が成長して成し遂げたいと思うときはまず他人を成長させようとする。(自他関係なく)よく手近に自分で取り上げて比較、実践するのが、仁者になる方法である。

【解説①】

「仁者」が何たるかを明確に語っている章句です。広く人民に善意を施し、民衆を救うひとになるためには、自他関係なく立ち、成長し成し遂げること、利他の精神が仁者になる方法であると説いています。

【解説②】

孔子は「仁者」であるか尋ねられると、決まって仁者かどうかは分からないといいます。話題に上った人間の人物評を敢えて避けているというより、「仁者」、「仁」がどういうものであることか言及してそれが少ない言葉で固定化することを避けているように思います。「仁」を思いやりの心と定義していますが、どんな心が思いやりなのか、どんな人物が「仁者」で思いやりの心が有るのか無いのか、孔子の言葉によって読み手がそれぞれ感じ取っていくのが論語の魅力だと思います。

「或ひと曰わく、雍や仁にして佞ならず。子曰わく、焉んぞ佞を用いん。人に禦るに口給を以てすれば、屢人に憎まる。其の仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。|「論語」公冶長第五05
「孟武伯問う、子路仁なりや。子曰わく、知らざるなり。又問う。子曰わく、由や、千乘之国、其の賦を治めしむべきなり。其の仁を知らざるなり。求や何如。子曰わく、求や、千室の邑、百乘の家、之が宰たらしむべきなり。其の仁を知らざるなり。赤や何如。子曰わく、赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべきなり。其の仁を知らざるなり。|「論語」公冶長第五08
「子張問うて曰わく、令尹子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜ぶ色無し。三たび之を已めらるれども、慍む色無し。舊令尹の政、必ず以て新令尹に告ぐ。何如。子曰わく、忠なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。崔子斉の君を弑す。陳文子馬十乘有り、棄てて之を違る。他邦に至りて、則ち曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。一邦に至りて、則ち又曰わく、猶吾が大夫崔子がごときなりと。之を違る。何如。子曰わく、清なり。曰わく、仁なりや。曰わく、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。|「論語」公冶長第五19
「子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。|「論語」雍也第六28
「克・伐・怨・欲行われざる、以て仁と為すべきや。子曰わく、以て難しと為すべし。仁は則ち吾知らざるなり。|「論語」憲問第十四02


「論語」参考文献|論語、素読会
雍也第六27< | >述而第七01


【原文・白文】
 子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。
<子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。>

(子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。)
【読み下し文】
 子貢(しこう)曰(のたま)わく、如(も)し博(ひろ)く民(たみ)に施(ほどこ)して、能(よ)く衆(しゅう)を済(すく)う有(あ)らば、何如(いかん)。仁(じん)と謂(い)うべきか。子(し)曰(のたま)わく、何(なん)ぞ仁(仁)を事(こと)とせん。必(かなら)ずや聖(せい)か。堯(ぎょう)舜(しゅん)も其(そ)れ猶(なお)諸(これ)を病(や)めり。夫(そ)れ仁者(じんしゃ)は、己(おのれ)立(た)たんと欲(ほっ)して人(ひと)を立(た)て、己(おのれ)達(たっ)せんと欲(ほっ)して人(ひと)を達(たっ)す。能(よ)く近(ちか)く譬(たとえ)を取(と)る。仁(じん)の方(みち)と謂(い)うべきのみ。
 ※方 … ほう・みち、と読み下す。


「論語」参考文献|論語、素読会
雍也第六27< | >述而第七01


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