論語、素読会

吾之を如何ともする末きのみ|「論語」子罕第九24

孔先生がおっしゃった、正しい道や礼にかなったことばは、大体従わないことはないであろうが、これを正しく直すことが価値があるのである。相手の気持ちに逆らわずへりくだったいい方をすると、大体よろこばないことはないであろうが、そのことばの真意をきわめることが価値があるのである。うれしく思って深く考えず、ことばに従うだけで直さない、私はどのようにすればいいのか、することはないのであるなぁ。|「論語」子罕第九24

【現代に活かす論語】
忠告されても直さず、褒め言葉に喜ぶばかりでよく考えなければ、学びを進める準備ができているとは思えない。

正しく忠告されればそれを直し、褒め言葉の真意を考えることで、人からよいアドバイスを引き出すことができる。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

07:30「子罕第九」後半13 – 31 素読
2022.6.27収録

【解釈】

子曰わく、法語の言は、能く従うこと無からんや。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶこと無からんや。之を繹ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従いて改めずんば、吾之を如何ともする末きのみ。|「論語」子罕第九24
子曰、法語之言、能無従乎。改之為貴。巽与之言、能無説乎。繹之為貴。説而不繹、従而不改、吾末如之何也已矣。

「法語」(ほうご)は正しい道や礼にかなったことば。「言」(げん)は言論、学説、主張。「能」(よく)は推測の意、大体…であろうか。「乎」(や)は反語を表す。「改」(あらためる)は訂正する、正しいものに直す。「貴」(たっとし)は価値があるさま、重要であるさま。「巽与之言」(そんよのげん)は相手の気持ちに逆らわずへりくだった言い方をすること。「説」(よろこぶ)は心からうれしく思う。「繹」(たずねる)は糸の端緒を引き出すように物事の道理をきわめる。「吾」(われ)は私、孔子。「如何」(いかん)はどのようにしようか、いかにすればよいか。「末」(ない)は存在しない。「已」(のみ)は確定や肯定の気持ちを強く表す。…なのである、…だけである。「矣」は文末に置き疑問、反語、詠嘆などの語気を表す。

孔先生がおっしゃった、正しい道や礼にかなったことばは、大体従わないことはないであろうが、これを正しく直すことが価値があるのである。相手の気持ちに逆らわずへりくだったいい方をすると、大体よろこばないことはないであろうが、そのことばの真意をきわめることが価値があるのである。うれしく思って深く考えず、ことばに従うだけで直さない、私はどのようにすればいいのか、することはないのであるなぁ。

【解説】

他人からの言葉についての章句です。忠告にしても褒め言葉にしても、自分の中でよく吟味することと、必要であればそこから学び実行することが大事であるということです。
孔子が弟子に伝えるとき、しばしばこのように何もすることがないといういい方をして、奮起を促すことがあります。伝えたことを


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九23< | >子罕第九25


【原文・白文】
 子曰、法語之言、能無従乎。改之為貴。巽与之言、能無説乎。繹之為貴。説而不繹、従而不改、吾末如之何也已矣。
<子曰、法語之言、能無從乎。改之爲貴。巽與之言。能無説乎。繹之爲貴。説而不繹、從而不改、吾末如之何也已矣。>

(子曰わく、法語の言は、能く従うこと無からんや。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶこと無からんや。之を繹ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従いて改めずんば、吾之を如何ともする末きのみ。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、法語(ほうご)の言(げん)は、能(よ)く従(したが)うこと無(な)からんや。之(これ)を改(あらた)むるを貴(たっと)しと為(な)す。巽与(そんよ)の言(げん)は、能(よ)く説(よろこ)ぶこと無(な)からんや。之(これ)を繹(たず)ぬるを貴(たっと)しと為(な)す。説(よろ)びて繹(たず)ねず、従(したが)いて改(あらた)めずんば、吾(われ)之(これ)を如何(いかん)ともする末(な)きのみ。


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