孔先生がおっしゃった、もしも私を登用するものがあれば、一年だけでもまあ十分だろう。三年もあれば成し遂げることができる。|「論語」子路第十三10
【現代に活かす論語】
もしも私に任せてもらえたら、必ず上手くやり遂げるのに。
『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
05:15「子路第十三」前半01 – 15 素読
2023.07.27収録
【解釈】
子曰わく、苟くも我を用うる者有らば、期月のみにして可ならん。三年にして成すこと有らん。|「論語」子路第十三10
子曰、苟有用我者、期月而已可也。三年有成。
「苟」(いやしくも)はもしも…ならば。「期月」(きげつ)は満一カ年。「可」(か)はよろしい、十分ではないが同意できるさま。
孔先生がおっしゃった、もしも私を登用するものがあれば、一年だけでもまあ十分だろう。三年もあれば成し遂げることができる。
【解説】
どんな場面の孔子の言葉でしょうか。これが本心だとすれば、孔子のプライドが垣間見えるようです。このひとつ前の章句では、衛の国で目の前の人々を「富まし」「教える」といいつつ、孔子が成し遂げる自信を覗かせるというより、聞き手の冉有に目的の共有として伝えています。これに対してこの章句は、独白とも取れるし、会話の一部分を切り取ったようにも思え、いずれにしても孔子が自分自身に向けた言葉だと感じます。珍しい章句です。
あらためて孔子の境遇と照らし合わせてみます。三十代「而立」四十代「不惑」(三十にして立ち、四十にして惑わず|「論語」為政第二04)で自信を深め、檜舞台へ上がる準備が整いつつあったころの言葉でしょうか。五十代前半の任官では満足する活躍ができませんでした。登用されないことへの焦燥感か、登用されても思うようにいかなかった自責の念なのか。「苟有用我者」に孔子の悔しさが滲みます。
私自身も二十代三十代のころ、「もしも…」という言葉を発しながら、自分の不遇(勝手に感じていた)を嘆いた経験がありました。孔子のこの章句にはそのころの自分の気持ちが重なります。この章句の後、様々な経験を経て、孔子は教育者として後輩の育成に向かっていくと私は考えています。社会人に成り立ての若いひとたちに論語を届けたいと考える理由に、この章句のような心の揺らぎ、葛藤が、二千五百年前の人たちにもあったということ、つまり、私たちの悩みは特別なことではないということを伝えることで、少しでも気持ちが楽になり前向きになれるのではないかという点です。
「論語」参考文献|論語、素読会
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【原文・白文】
子曰、苟有用我者、期月而已可也。三年有成。
(子曰わく、苟くも我を用うる者有らば、期月のみにして可ならん。三年にして成すこと有らん。)
【読み下し文】
子(し)曰(のたま)わく、苟(いやし)くも我(われ)を用(もち)うる者(もの)有(あ)らば、期月(きげつ)のみにして可(か)ならん。三年(さんねん)にして成(な)すこと有(あ)らん。
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