論語、素読会

難いかな恒有ること|「論語」述而第七25

孔先生がおっしゃった、今は聖人を見る(に出合う)ことができない。君子者を見ることができれば、満足することができる。孔先生がおっしゃった、今は善人を見ることができない。常に前向きな心を持った人を見ることができれば、満足することができる。無くても有ると思い、空っぽでも満ちていると思い、貧しくても安らかである。常に前向きな心を持って生活することは、難しいことだなあ。|「論語」述而第七25

【現代に活かす論語】
常に変わらない正しい心を持って生活することは難しい。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
13:00 「述而第七」後半24-37 素読
2021.11.30収録

【解釈】

子曰わく、聖人は吾得て之を見ず。君子者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰わく、善人は吾得て之を見ず。恒有る者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくして盈てりと為し、約しくして泰かなりと為す。難いかな恒有ること。|「論語」述而第七25
子曰、聖人吾不得而見之矣。得見君子者、斯可矣。子曰、善人吾不得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而為有、虚而為盈、約而為泰。難乎有恒矣。

「聖人」(せいじん)は高い知徳を身につけた理想的な人物。君子の中でも最高至上の人。「得」(える)はできる。「君子者」(くんししゃ)は徳の高いりっぱな人物、人の上に立つリーダーで人格者。「可」(か)は満足する。「善人」(ぜんにん)はよい人、誠実な人。「恒」(つね)は安定しているさま、維持して変わらないさま。不変性、恒常的な精神。「亡」(ない)は無い。「虚」(むなしい)は空っぽ、中身が無い。「盈」(みつ)は満つ、充満する。「約」(まずしい)は貧しい。「泰」(ゆたか)は安らか。

「有恒者」(つねあるもの)は常に変わらない正しい心(恒心)を持った人。

孔先生がおっしゃった、今は聖人を見る(に出合う)ことができない。君子者を見ることができれば、満足することができる。孔先生がおっしゃった、今は善人を見ることができない。常に前向きな心を持った人を見ることができれば、満足することができる。無くても有ると思い、空っぽでも満ちていると思い、貧しくても安らかである。常に前向きな心を持って生活することは、難しいことだなあ。

孔先生がおっしゃった、今は聖人を見る(に出合う)ことができない。君子者を見ることができれば、満足することができる。孔先生がおっしゃった、今は善人を見ることができない。常に変わらない正しい心を持った人を見ることができれば、満足することができる。(恒有る者とは、)無くても有ると思い、空っぽでも満ちていると思い、貧しくても安らかである。常に変わらない正しい心を持って生活することは、難しいことだなあ。

【解説】

「有恒者」をどのように解釈するかがこの章句のポイントです。まず、聖人→君子者→善人→有恒者と考えるより、聖人→君子者、善人→有恒者と、区切って考えます。「善人」は君子者以外の「小人」に含まれ、小人の中でもよい人を指すと設定します。善人は見ることができないが、見ることができれば満足できるのが「有恒者」です。君子者の中でも最高の人物を聖人といい、「有恒者」のなかでもよい人が「善人」と考えると、「善人」ほどではないが、よい部分がある人が「有恒者」と考えることができます。
では、よい部分がある人の「恒有ること」というのはどういうことでしょうか。本章句では恒有ることは難しいと結んでいます。『無くても有ると思い、空っぽでも満ちていると思い、貧しくても安らかである。』というのが恒有る状態です。同じ述而第七に以下のような章句があります。「粗末な食事をとり水を飲み、肘を曲げて腕枕をする。楽しみはその中にある。正しくないことで得た俸禄と地位は私にとってはかないものだ。|「論語」述而第七15」また、「貧しくても恨みがましくないのは難しく、裕福でもわがままにふるまわないのは、たやすいことだ。|「論語」憲問第十四14」この章句から考えると、貧しい生活の中で恒有ることは、「楽しむ」こと「前向き」なことではないかと思い至りました。現代風に言い換えればポジティブであることです。恒にポジティブに楽しむことは「善人」に近づくことではないかと思うのです。 [2025.12.24再解釈]

「有恒」(つねある)という状況を、『常に変わらない正しい心をもつ』と解釈しました。
『君子は短い食事の時間であっても「仁」の道から離れることなく、あわただしいときも必ず「仁」の道に居て、つまずき倒れそうな場合でも必ず「仁」の道から離れることはない。』君子は食を終わるの間も仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於てし、顚沛にも必ず是に於てす|「論語」里仁第四05
君子には常に「仁」の中にあることを求めている孔子ですが、善人の中にも「有恒」である者の存在を認めていて、泰然自若としていることの難しさを示して、そういった人物が少なくなっていることを憂いています。


「論語」参考文献|論語、素読会
述而第七24< | >述而第七26


【原文・白文】
 子曰、聖人吾不得而見之矣。得見君子者、斯可矣。子曰、善人吾不得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而為有、虚而為盈、約而為泰。難乎有恒矣。
<子曰、聖人吾不得而見之矣。得見君子者、斯可矣。子曰、善人吾不得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虚而爲盈、約而爲泰。難乎有恒矣。>

(子曰わく、聖人は吾得て之を見ず。君子者を見るを得ば、斯れ可なり。子曰わく、善人は吾得て之を見ず。恒有る者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくして盈てりと為し、約しくして泰かなりと為す。難いかな恒有ること。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、聖人(せいじん)は吾(われ)得(え)て之(これ)を見(み)ず。君子者(くんししゃ)を見(み)るを得(え)ば、斯(こ)れ可(か)なり。子(し)曰(のたま)わく、善人(ぜんにん)は吾(われ)得(え)て之(これ)を見(み)ず。恒(つね)有(あ)る者(もの)を見(み)るを得(え)ば、斯(こ)れ可(か)なり。亡(な)くして有(あ)りと為(な)し、虚(むな)しくして盈(み)てりと為(な)し、約(まず)しくして泰(ゆた)かなりと為(な)す。難(かた)いかな恒(つね)有(あ)ること。
※「約而爲泰」は約(やく)にして泰(たい)なりと為(な)す。とも、約(まず)しくして泰(ゆた)かなりと為(な)す。とも読み下す。


「論語」参考文献|論語、素読会
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