孔先生がおっしゃった、粗末な食事をとり水を飲み、肘を曲げて腕枕をする。楽しみはその中にある。正しくないことで得た俸禄と地位は私にとってはかないものだ。|「論語」述而第七15
【現代に活かす論語】
正しくない行いで得た豊かさははかない。粗食やひとり寝の中に楽しみを見いだすのです。
『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
11:25 「述而第七」前半01-23 素読
2024.09.10収録
【解釈】
子曰わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。|「論語」述而第七15
子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。
「飯」(くらう)は食べる。「疏食」(そし)は粗食。「不義」(ふぎ)は正しくないこと、道義から外れていること。『義』とは?|論語、素読会 「富」(とみ)は俸禄。「貴」(たっとき)は地位。「浮雲」(ふうん)ははかないもの。
孔先生がおっしゃった、粗末な食事をとり水を飲み、肘を曲げて腕枕をする。楽しみはその中にある。正しくないことで得た俸禄と地位は私にとってはかないものだ。
【解説①】
疏食を飯い水を飲み、とは、質素な生活を自ら選択するという状況も考えられますが、続く、肱を曲げて之を枕とす。という文言によって、枕もない生活、ひとり寝の生活が表現され、経済的に恵まれない状況が想起されます。より学びに時間を割く生活は、生きるための糧を得る時間を削ることになります。茶や酒を飲まず、粗食とひとり寝に楽しみを見いだすとは、貧困を悲観しないということであり、学ぶことが何事にも代えがたいということでしょう。また、孔子や孔子の門下では、職を得たとしても、道理を外れた生活によって得た富や名声は、はかないものつまり価値を見いだせないものということです。
経済的、社会的地位による豊かさより、心の豊かさを説いている、大変孔子らしい章句といえるでしょう。
【解説②】
映画『侍タイムスリッパー』で、会津藩松平家家臣高坂新左衛門が殺陣師関本に弟子入りを志願する場面で、衰退する時代劇の現状を語り再考を促す関本に対して、事故に遭った高坂自身の境遇を踏まえて語ったのがこの章句です。「子曰く、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも亦其の中に在り、」と語る高坂に対して、「不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。」と返す関本。師弟としての精神的な土台が気付かれたのでした。
ちなみに、劇中では、「子曰わく」(しいわく)と読んでいますが、このブログでは(しのたまわく)と読み下します。どちらが正しいというのではありません。(しいわく)は先生が言った、(しのたまわく)は先生がおっしゃった、という違いです。他の章句でも、細かい読み下しの違いがありますが、章句の意味が変わるほどの読み下しでないことがほとんどですので、気にする必要はありません。
「論語」参考文献|論語、素読会
述而第七14< | >述而第七16
【原文・白文】
子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。
<子曰、飯疏食飮水、曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。>
(子曰わく、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみも亦其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。)
【読み下し文】
子(し)曰(のたま)わく、疏食(そし)を飯(くら)い水(みず)を飲(の)み、肱(ひじ)を曲(ま)げて之(これ)を枕(まくら)とす。楽(たの)しみも亦(また)其(そ)の中(うち)に在(あ)り。不義(ふぎ)にして富(と)み且(か)つ貴(たっと)きは、我(われ)に於(おい)て浮雲(ふうん)の如(ごと)し。
「論語」参考文献|論語、素読会
述而第七14< | >述而第七16