論語、素読会

之に従わんと欲すと雖も、由末きのみ|「論語」子罕第九11

顔淵がため息をついて言うには、頭をあげて仰ぎ見ればいよいよ高く、切り込もうと思えばいよいよ堅い。前にあると思えば忽(たちま)ち後ろにある(というように自在である)。
(そのような存在にあって)孔先生は順序正しくすばらしく人を導いてくださる。私の見識を広めるためには礼楽制度をはじめさまざまな学術を以て、私を引き締めるためには礼儀・礼節・作法を以て導かれる。(私が学びを)止めようと思ってもどうしても止めることはできず、自分の能力の限りを尽くしてしまう。(孔先生は)立つべき場所に高くそびえるように立っていらっしゃる。付き従って行こうと思ってもどうにも手立てがない。
|「論語」子罕第九11

【現代に活かす論語】
孔子の一番の弟子、顔淵にとって孔子とは、高く堅牢な存在でありながら、古くから伝わる普遍的な文献・制度による導きと自分の能力の限りを引き出してくれる人物。それでも追い付けない高く遠い存在だったのです。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

12:55 「子罕第九」前半01-12 素読
2022.5.28収録

【解釈】

顔淵(がんえん) … 姓は顔(がん)、名は回(かい)、字は子淵(しえん)。孔子より三十歳若い。孔子よりも早く、三十歳(一説では四十歳とも)で死んだ。秀才で、門人の中で一番の学問好き。孔子の第一の弟子ともいわれる。「論語」の登場人物|論語、素読会

顔淵喟然として歎じて曰わく、之を仰げば彌高く、之を鑽れば彌堅し。之を瞻るに前に在り、忽焉として後に在り。夫子循循然として、善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷めんと欲すれども能わず、既に吾が才を竭くせり。立つ所有りて卓爾たるが如し。之に従わんと欲すと雖も、由末きのみ。|「論語」子罕第九11
顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然、善誘人。博我以文、約我以礼。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲従之、末由也已。

「喟然」(きぜん)はため息をつくさま。「歎」(たん)はため息をつく。「仰」(あおぐ)は頭をあげて遠くを見る。「彌」(いよいよ)は程度が一層加わる意。「鑽」(きる)は穴をあける、きりもみしてこする、深く研究するの意。「」(みる)は前方をみる、望む。「忽焉」(こつえん)はすばやいさま。「夫子」(ふうし)は孔子を指す。「循循然」(じゅんじゅんぜん)は順序正しいさま。「誘」(いざなう)は教え導く。「博」(ひろむ)はさまざまな文献によって自分の知識を広くする。「文」(ぶん)は礼楽制度、文化・教養・学術全般。「約」(やくす)は制限する、一定の範囲を超えないようにひきしめる。「礼」(れい)は広く礼儀、父母に対する礼節・しきたり、祭礼などの作法を示す。『礼』とは?|論語、素読会 「罷」(やめる)は停止する、休止する。「不能」(あたわず)はあえて…しない、どうしても…しないと訳す。「才」(さい)は能力、知能、はたらき。「竭」(つくす)は限界まですべてを出し尽くす。「卓爾」(たくじ)は高く抜きんでているさま。由(よし)は処理する方法、やり方。「末」(なし)は存在しない。

顔淵がため息をついて言うには、頭をあげて仰ぎ見ればいよいよ高く、切り込もうと思えばいよいよ堅い。前にあると思えば忽(たちま)ち後ろにある(というように自在である)。
(そのような存在にあって)孔先生は順序正しくすばらしく人を導いてくださる。私の見識を広めるためには礼楽制度をはじめさまざまな学術を以て、私を引き締めるためには礼儀・礼節・作法を以て導かれる。(私が学びを)止めようと思ってもどうしても止めることはできず、自分の能力の限りを尽くしてしまう。(孔先生は)立つべき場所に高くそびえるように立っていらっしゃる。付き従って行こうと思ってもどうにも手立てがない。

【解説①】

「之」とは孔子の行いや存在のことを指しています。ですのでこの章句の冒頭は、孔子のことを顔淵が比喩的に表現したと考えました。確固たる存在として自分の前にある孔子から、直接学び導かれる素晴らしさは、その存在の大きさや目標の高さにときにはその歩みを止めたいと思うことすら忘れてしまうほど魅力的で、ついつい追いつきたい、従っていたいと思わせる、そんな崇高な弟子としての顔淵の姿が伝わってきます。
数ある弟子の中で、特別な存在であると孔子に言わしめた顔淵のことばだからこそ、そのことばの重みが伝わってくるようです。

【解説②】

「仰高」(ぎょうこう)という言葉の由来となった章句です。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九10< | >子罕第九12


【原文・白文】
 顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然、善誘人。博我以文、約我以礼。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲従之、末由也已。
<顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。瞻之在前、忽焉在後。夫子循循然、善誘人。博我以文、約我以禮。欲罷不能、既竭吾才。如有所立卓爾。雖欲從之、末由也已。>

(顔淵喟然として歎じて曰わく、之を仰げば彌高く、之を鑽れば彌堅し。之を瞻るに前に在り、忽焉として後に在り。夫子循循然として、善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷めんと欲すれども能わず、既に吾が才を竭くせり。立つ所有りて卓爾たるが如し。之に従わんと欲すと雖も、由末きのみ。)
【読み下し文】
 顔淵(がんえん)喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰(い)わく、之(これ)を仰(あお)げば彌(いよいよ)高(たか)く、之(これ)を鑽(き)れば彌(いよいよ)堅(かた)し。之(これ)を瞻(み)るに前(まえ)に在(あ)り、忽焉(こつえん)として後(しりえ)に在(あ)り。夫子(ふうし)循循(じゅんじゅん)然(ぜん)として、善(よ)く人(ひと)を誘(いざな)う。我(われ)を博(ひろ)むるに文(ぶん)を以(もっ)てし、我(われ)を約(やく)するに礼(れい)を以(もっ)てす。罷(や)めんと欲(ほっ)すれども能(あた)わず、既(すで)に吾(わ)が才(さい)を竭(つ)くせり。立(た)つ所(ところ)有(あ)りて卓爾(たくじ)たるが如(ごと)し。之(これ)に従(したが)わんと欲(ほっ)すと雖(いえど)も、由(よし)末(な)きのみ。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九10< | >子罕第九12


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