論語、素読会

我其の両端を叩いて竭くす|「論語」子罕第九08

孔先生がおっしゃった、私はもの知りであろうか。いや知らないのだ。無知な人が私にものを尋ねるときに素直であれば、私はそのすみずみまで質問して、私が知っていることを出し尽くすようにしている。|「論語」子罕第九08

【現代に活かす論語】
孔子は謙遜して言いました、私はもの知りだろうか、いやもの知りでは無い。誠実に尋ねるひとには、質問の内容をすみずみまで聞き取って、自分の知識を残すところなく伝えるのでそう映るのだろうと。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

07:40 「子罕第九」前半01-12 素読
2022.4.22収録

【解釈】

子曰わく、吾知ること有らんや。知ること無きなり。鄙夫ありて我に問うに、空空如たり。我其の両端を叩いて竭くす。|「論語」子罕第九08
子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。我叩其両端而竭焉。

「鄙夫」(ひふ)は心が狭くいやしい者。愚か者。「空空如」(こうこうじょ)は知識がないさま、純朴そうなさま。「叩」(たたく)は質問する、尋問する。「竭」(つくす)は限界まですべてを出し尽くす。

孔先生がおっしゃった、私はもの知りであろうか。いや知らないのだ。無知な人が私にものを尋ねるときに素直であれば、私はそのすみずみまで質問して、私が知っていることを出し尽くすようにしている。


【解説】

「鄙夫」(ひふ)は自分を謙遜するときも使うので、この章句の場合は卑しいというよりものを知らない人という意味で解釈しました。相手に真摯な態度があれば丁寧に隅々まで問い直して、すべて出し尽くすまで対応するという孔子の姿勢と、それが相手にもの知りと映るのだろうという謙虚な心です。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九07< | >子罕第九09


【原文・白文】
 子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。我叩其両端而竭焉。
<子曰、吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我、空空如也。我叩其兩端而竭焉。>

(子曰わく、吾知ること有らんや。知ること無きなり。鄙夫ありて我に問うに、空空如たり。我其の両端を叩いて竭くす。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)知(し)ること有(あ)らんや。知(し)ること無(な)きなり。鄙夫(ひふ)ありて我(われ)に問(と)うに、空空如(こうこうじょ)たり。我(われ)其(そ)の両端(りょうたん)を叩(たた)いて竭(つ)くす。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九07< | >子罕第九09


※Kindle版