論語、素読会

吾之を観ることを欲せず|「論語」八佾第三10

【原文】
 子曰、禘自既灌而往者、吾不欲観之矣。
(子曰わく、禘既に灌ぎてより往は、吾之を観ることを欲せず。)

『論語、素読会』
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00:00​ 章句の検討 八佾第三10
07:40​ 章句の検討 八佾第三11
17:40​ 「八佾第三」01-26 素読
2021.4.15収録


「灌」は(そそぎて)または(かんして)と読み下す。

【解釈】

子曰、禘自既灌而往者、吾不欲観之矣。

「禘」(てい)は王だけが行うことができる祭り。君主がすべての先祖の位牌を始祖の廟に集めて祀る祭。「灌」(かん)は祭りの始めの神様を招く儀式。「而往」(のちは)は以降の意。「不欲観」(みることをほっせず)は観る気がしない、傍観する気が失せるの意。
孔先生がおっしゃった、禘の祭において、先祖の魂を招く儀式あたりまではいいとして、それ以降は見るに堪えるものではない。


【解説】

前提として、この禘という祭が正しく行われていたのかどうかを疑う研究書、文献が多いです。そもそも行うべき立場にあったのか、天子(王)に対して非礼は無かったか、など孔子が祭儀事態を問題視しているという考え方があります。一方で、儀式の形骸化による質の低下があったのではないかという指摘もあります。いずれにしても「不欲観」という第三者的な表現は孔子の冷ややかなまなざしを感じます。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三09< | >八佾第三11


【現代に活かす論語】
形だけの祭礼、葬儀など、心が通っていない祭祀は見るに堪えない。