論語、素読会

吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく|「論語」子罕第九15

孔先生がおっしゃった、私が衛の国から魯に戻ってやっと礼楽が正しくなり、儀式・祭祀の歌である雅頌が適切に行われるようになった。|「論語」子罕第九15

【現代に活かす論語】
葬祭の慣習は乱れたままにせず正しく行うべきです。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

04:05「郷党第十」前半10 – 18 素読
2022.11.28収録

【解釈】

「衛」(えい)、「魯」(ろ)は古代中国の国の名前。孔子は「魯」に生まれ育ちくらした。

子曰わく、吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく、雅頌各々其の所を得たり。|「論語」子罕第九15
子曰、吾自衛反魯、然後楽正、雅頌各得其所。

」(かえる)は戻る。「然後」(しかるのち)はその後で、そうしてやっと、そこではじめてと訳す。「楽」(がく)は五声(ごせい・中国の音楽で使われる階名)八音(はちおん・種類の楽器を表す語。 古代中国では、楽器は金、石、糸、竹、匏、土、革、木(きん、せき、し、ちく、ほう、ど、かく、ぼく)の種類の素材からつくられると考えられ、区分されていた)の総称、音楽。「雅頌」(がしょう)は詩経の雅と頌のこと。「雅」は朝廷の儀式・饗宴の際の正楽の歌。「頌」は宗廟の祭祀のとき祖先の功徳をたたえる歌。「所」(ところ)は適切さ、よろしき状態。

孔先生がおっしゃった、私が衛の国から魯に戻ってやっと礼楽が正しくなり、儀式・祭祀の歌である雅頌が適切に行われるようになった。

【解説】

この章句の時期はいつかというと、孔子が魯の大夫を辞めて諸国周遊の旅に出て帰ってきた後、魯を離れて十四年程度が経過した時期だと思われます。六十歳代後半の孔子は、儀式や祭祀で行われる歌(礼楽)を自らのアドバイスで正したのだと考えられます。礼楽が乱れているということは政治も乱れている可能性も高いのですがそこには触れていません。
文献によると、礼楽だけではなく「雅頌」の出典元である「詩経」も整理したのだという解釈があるようです。私は深読みすることをせずにシンプルに解釈することにしました。
それより興味深いのは、雅頌は諸侯が行う限定的な儀式・祭祀の乱れを直したということです。孔子のシンパというか孔子の進言を聞き入れる環境が魯の国に残っていたということにほかなりません。孔子の影響力の強さ、実力を現している章句だと思います。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九14< | >子罕第九16


【原文・白文】
 子曰、吾自衛反魯、然後楽正、雅頌各得其所。
<子曰、吾自衛反魯、然後樂正、雅頌各得其所。>

(子曰わく、吾衛より魯に反りて、然る後に楽正しく、雅頌各々其の所を得たり。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)衛(えい)より魯(ろ)に反(かえ)りて、然(しか)る後(のち)に楽(がく)正(ただ)しく、雅頌(がしょう)各々(おのおの)其(そ)の所(ところ)を得(え)たり。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九14< | >子罕第九16


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