孔先生がおっしゃった、学問を志し思いやりの心を持ったひとは、生きたいがために思いやりの心をそこなうことは無く、時には自分の才能や能力を犠牲にして、仁徳の心を成し遂げることがあると。|「論語」衛霊公第十五09
【現代に活かす論語】
利己のために思いやりの心を犠牲にすることなく、思いやりの心のために自己を犠牲にすることがある。
『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
08:30「衛霊公第十五」前半01 – 22 素読
2024.3.5収録
【解釈】
子曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り。|「論語」衛霊公第十五09
子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。
「志士」(しし)は学問にこころざしをもつ人。「仁人」(じんじん)は仁者、仁・思いやりの心を体得した人。「生」(せい)は生命、命、生計、生活、くらし。「害」(がいす)はそこなう。「身」自分、自己の才能、能力。「殺」(ころす)はこわす、害する。
孔先生がおっしゃった、学問を志し思いやりの心を持ったひとは、生きたいがために思いやりの心をそこなうことは無く、時には自分の才能や能力を犠牲にして、仁徳の心を成し遂げることがあると。
【解説】
文献によっては、「有殺身以成仁」を自身の命を犠牲にしてもと解釈するものがありますが、ここでは、自分の才能や能力を犠牲にしてもという解釈に留めました。ふたつ前の章句では、孔子は徳政が為されていなければその能力を隠すようにと語ります。「立派なリーダーだな衛の大夫・蘧伯玉は、国の政事が正しく行われているときには国に仕え、国の政事が行われていないときには、(能力を)まとめて懐にしまってしまう|「論語」衛霊公第十五07」これは出し惜しみをするとか放っておくというのではなく、忍耐強く辛抱強く徳政が行われるのを待つ、またはそのように差し向けるということではないかと思うのです。生命より大切な仁という解釈は一見、正しいようにも感じますが、孔子が言う「仁」は人民に向けられるものであること、そして「仁」が広く人民にも広まりみなが君子を目指す世の中を孔子が望んでいるとすれば、命と仁を比べるような解釈には違和感を感じます。こちらの章句「民今に到るまで其の賜を受く|「論語」憲問第十四18」では、弟子の子貢の問い、「殺された主君を追って死ななかったのは仁が無いのではないか」に対して、孔子がそもそも仁とは人民に向けられるものではと語ります。弟子と孔子との間でさえ認識に差がある(であるから、孔子と弟子たちを仁を追求している)「仁」を為すために軽々しく命を犠牲にするという解釈は、私にとっては強すぎるのです。
「論語」参考文献|論語、素読会
衛霊公第十五08< | >衛霊公第十五10
【原文・白文】
子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。
(子曰わく、志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り。)
【読み下し文】
子(し)曰(のたま)わく、志士(しし)仁人(じんじん)は、生(せい)を求(もと)めて以(もっ)て仁(じん)を害(がい)すること無(な)く、身(み)を殺(ころ)して以(もっ)て仁(じん)を成(な)すこと有(あ)り。
「論語」参考文献|論語、素読会
衛霊公第十五08< | >衛霊公第十五10