孔先生がおっしゃった、たとえば山を築くようである。まだひとかご分を築かずに(残して)止めるのはわたし(自分)が止めることである。たとえば土地を平らにするようである。もしひとかご分をひっくりかえしただけだとしても、(平らにすることが)進むのはわたし(自分)がそのように赴くからである。|「論語」子罕第九19
【現代に活かす論語】
物事を完成させる最後の詰めで手を抜くのも自分であり、物事にはじめる最初の行動を起こすのも自分です。
『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
07:50「子罕第九」後半13 – 31 素読
2022.6.15収録
【解釈】
子曰わく、譬えば山を為るが如し。未だ一簣を成さずして、止むは吾が止むなり。譬えば地を平かにするが如し。一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり。|「論語」子罕第九19
子曰、譬如為山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。
「譬」(たとえ)はひきあいに出して説明する、なぞらえる。「為」(つくる)は製造する。「如」(ごとし)は同様である、似る、…のようである。「未」はまだ…していないと訳す。「簣」(き)は土を運ぶ竹かご、もっこ。「覆」(くつがえす)はひっくりかえす。「雖」(いえども)はもし…であったとしてもと訳す。「往」(いく)は赴く。
孔先生がおっしゃった、たとえば山を築くようである。まだひとかご分を築かずに(残して)止めるのはわたし(自分)が止めることである。たとえば土地を平らにするようである。もしひとかご分をひっくりかえしただけだとしても、(平らにすることが)進むのはわたし(自分)がそのように赴くからである。
【解説】
すべての行動は自分自身に帰着しているということです。止めるのもはじめるのも自分の責任ということです。
孔子がひとかごに例えた意味を考えてみましょう。土を運ぶ竹かごひとかご分というのはどのような労力でしょうか。スコップ一杯分でもなく台車1台分でないことに孔子の意図を考えてみるのもおもしろいのではないでしょうか。ひとりで行う作業で簡単ではない作業。真夏であれば、汗がにじむかも知れません。山を築くのであれば他人が見ても分からないかも知れない量。平らにするとすれば誰でも手を付けられるような、でもはじめればそれなりの負荷がともなう量。私たちの心の中にも作業を完成させる場合の詰めであったり、作業になかなか手を付けられないジレンマであったり、心の修養に関わる問題を孔子なりの例えで表現している章句です。
「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九18< | >子罕第九20
【原文・白文】
子曰、譬如為山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。
<子曰、譬如爲山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。>
(子曰わく、譬えば山を為るが如し。未だ一簣を成さずして、止むは吾が止むなり。譬えば地を平かにするが如し。一簣を覆すと雖も、進むは吾が往くなり。)
【読み下し文】
子(し)曰(のたま)わく、譬(たと)えば山(やま)を為(つく)るが如(ごと)し。未(いま)だ一簣(いっき)を成(な)さずして、止(や)むは吾(わ)が止(や)むなり。譬(たと)えば地(ち)を平(たいら)かにするが如(ごと)し。一簣(いっき)を覆(くつがえ)すと雖(いえど)も、進(すす)むは吾(わ)が往(い)くなり。
「論語」参考文献|論語、素読会
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