論語、素読会

未だ与に權るべからず|「論語」子罕第九30

孔先生がおっしゃった、一緒に学ぶことはできるが、未だに一緒に徳性を重ねながら正しい道へ向かう人はいない。一緒に徳性を重ねながら正しい道へ向かう人はいるが、未だに一緒に成し遂げる人はいない。一緒に成し遂げようとする人はいても、未だに一緒に臨機応変に処置をできる人はいない。|「論語」子罕第九30

【現代に活かす論語】
ともに学んでも正しい道を鍛錬しつづけるのは難しく、ともに鍛錬しても目標を成し遂げるのは難しい。ともに目標を成し遂げようとしても臨機応変に対応していく、そんな存在を得るのは難しい。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
10:50「子罕第九」後半13 – 31 素読
2022.7.11収録

【解釈】

子曰わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。|「論語」子罕第九30
子曰、可与共学、未可与適道。可与適道、未可与立。可与立、未可与權。

「与共」(ともにともに)は一緒に。「道」(みち)はひとが生まれながらにして徳性を重ねながら進む道。正しい道。『道』とは?|論語、素読会 「適」(ゆく)は心が向かう。「立」(たつ)は成し遂げる。「権」(はかる)は臨機応変に処置する、自在な対応をする。

孔先生がおっしゃった、一緒に学ぶことはできるが、未だに一緒に徳性を重ねながら正しい道へ向かう人はいない。一緒に徳性を重ねながら正しい道へ向かう人はいるが、未だに一緒に成し遂げる人はいない。一緒に成し遂げようとする人はいても、未だに一緒に臨機応変に処置をできる人はいない。

【解説】

文献では、学而第二の章句(四十にして惑はず、五十にして天命を知る|「論語」為政第二04)と重ね合わせて解釈しています。私もその解釈に従ってみようと思います。
十五にして学を志し、三十にして立ちというは、ともに学び、ともに道に往くという事だと思います。五十にして天命を知り、六十にして耳従うというのが、ともに成し遂げ、ともに臨機応変に対処するということではないでしょうか。孔子でさえも六十歳までかかったのですが、そのような人物が得難いというのは納得ができます。

孔子は三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知った。これは信念の世界、安心樹立の境地である。しかし、耳が順い、心の欲するところに順って矩を踰えないとは、六十、七十にして初めて能くするところである。このように自由にしてしかも宜しきを得ることは、孔子にしても然りである。世上に得難いのは、また当然といえよう。

「論語 新釈漢文大系」吉田賢抗 著(明治書院 刊)

ただ、この章句で孔子が伝えたかったのは、だからといって諦めるのではなく、自分自身がともに学ぶ朋友から、そのような人物であるように切磋琢磨せよというメッセージに思えます。もちろん孔子自身もそうありたいと思っている気持ちが感じられます。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九29< | >子罕第九31


【原文・白文】
 子曰、可与共学、未可与適道。可与適道、未可与立。可与立、未可与権。
<子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權。>

(子曰わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に權るべからず。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、与(とも)に共(とも)に学(まな)ぶべし、未(いま)だ与(とも)に道(みち)に適(ゆ)くべからず。与(とも)に道(みち)に適(ゆ)くべし、未(いま)だ与(とも)に立(た)つべからず。与(とも)に立(た)つべし、未(いま)だ与(とも)に權(はか)るべからず。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九29< | >子罕第九31


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