論語、素読会

匡人其れ予を如何にせん|「論語」子罕第九05

孔先生は匡において恐ろしい目にあった。孔先生がおっしゃった、文王はすでに亡くなっているが、いまその文化は私に伝わっていないのだろうか。天の意思がまさにこの文化を滅ぼそうとするなら、後の私が文王の文化にかかわることはできないはずだ。天の意思が未だにこの文化を滅ぼさないつもりならば、匡の人たちは私をどうすることもできないだろう。|「論語」子罕第九05

【現代に活かす論語】
たとえ上司や世間から疎まれたとしても、自分が道理にかなった行動をしているのであれば、誰も邪魔することはできません。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

07:05「郷党第十」前半01 – 09 素読
2022.10.19収録

【解釈】

匡(きょう) … 衛の地名。

文王(ぶんのう) … 名は昌(しょう)。周の王。周の道徳文化の創始者とされ、孔子がもっとも尊敬した人物。「論語」の登場人物|論語、素読会

子匡に畏す。曰わく、文王既に没したれども、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん。|「論語」子罕第九05
子畏於匡。曰、文王既没、文不在茲乎。天之将喪斯文也、後死者、不得与於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。

「畏」(いす)は脅かす。恐ろしい目にあった。「文」(ぶん)は礼楽制度、文化・教養・学術全般。「茲」(ここ)は此。文献では孔子自身のことを指すと解釈している。「天」(てん)は天の意思、めぐりあわせ。「喪」(ほろぼす)は滅亡する。「後死者」(こうしのもの)は孔子自身を指す。「与」(あずかる)は参加する、かかわる、預かる。

孔先生は匡において恐ろしい目にあった。孔先生がおっしゃった、文王はすでに亡くなっているが、いまその文化は私に伝わっていないのだろうか。天の意思がまさにこの文化を滅ぼそうとするなら、後の私が文王の文化にかかわることはできないはずだ。天の意思が未だにこの文化を滅ぼさないつもりならば、匡の人たちは私をどうすることもできないだろう。

【解説】

孔子は諸国周遊の旅に出たと伝わりますが、それは孔子の志を絶とうとして命を狙うものから逃れるという理由もあったようです。この章句にある、恐ろしい目にあったというのは、そのような輩に絡まれたということなのでしょうか。

『史記』にはかつて匡で乱暴をはたらいた人物・陽虎(ようこ)「論語」の登場人物|論語、素読会 に間違えられ監禁されたと記述されています。孔子の容姿が陽虎に似ていたとも伝わります。この陽虎という魯の大夫は当時悪政をはたらいていた三桓を滅ぼそうとして失敗した人物だというので、単なる乱暴者というより為政者から疎まれる人物に間違えられたと理解すべきです。故に、天の意思で孔子自身が生かされているのであれば、生き抜けるはずだという大変に強い意志、勇気を表す内容になるのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九04< | >子罕第九06


【原文・白文】
 子畏於匡。曰、文王既没、文不在茲乎。天之将喪斯文也、後死者、不得与於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。
<子畏於匡。曰、文王既没、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。>

(子匡に畏す。曰わく、文王既に没したれども、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何にせん。)
【読み下し文】
 子(し)匡(きょう)に畏(い)す。曰(のたま)わく、文王(ぶんのう)既(すで)に没(ぼっ)したれども、文(ぶん)茲(ここ)に在(あ)らずや。天(てん)の将(まさ)に斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし)の者(もの)、斯(こ)の文(ぶん)に与(あずか)るを得(え)ざるなり。天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)其(そ)れ予(われ)を如何(いか)にせん。


「論語」参考文献|論語、素読会
子罕第九04< | >子罕第九06


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