論語、素読会

民の仁に於けるや、水火よりも甚だし|「論語」衛霊公第十五35

孔先生がおっしゃった、人民にとって心の徳を重ねて徳性を高めることは、水と火のような日常生活に必要不可欠なものより大切である。私は水や火を踏んで(水害や火事で)死んだ者を見たことがあるが、未だに心の徳を重ねることを実行して死んだ者を見たことがない。|「論語」衛霊公第十五35

【現代に活かす論語】
心の徳を重ねることは、日常生活に不可欠なライフラインよりも大切です。

【解釈】

子曰わく、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。|「論語」衛霊公第十五35
子曰、民之於仁也、甚於水火。水火吾見蹈而死者矣。未見蹈仁而死者也。

「仁」(じん)は心の徳を重ね徳性を高めること。『仁』とは?|論語、素読会 「於」(おける)は…において、…で、…から、…まで。「水火」(すいか)は水と火、日常生活に必要不可欠なもの。「甚」(はなはだし)は超える、はなはだしい。「蹈」(ふむ)はふみつける、行う、ふみおこなう、実行する。

孔先生がおっしゃった、人民にとって心の徳を重ねて徳性を高めることは、水と火のような日常生活に必要不可欠なものより大切である。私は水や火を踏んで(水害や火事で)死んだ者を見たことがあるが、未だに心の徳を重ねることを実行して死んだ者を見たことがない。

【解説】

水を得ることや火を起こすことは「生きる」ということで人間の本能に直接関与することですが、孔子はそれより「仁」徳性を高めることが大事であると説きます。ただ、その説明において、徳性を高めることで死んだ者を見たことがないという例えは少し強引なように感じます。この章句を解釈するには、その場面を想像することが必要でしょう。
例えば、なぜ「仁」が必要なのかと孔子に尋ねた人がいたとします。その人はそもそも孔子の教えに懐疑的で腹の足しにならないような学問をして何になると考えていることが伝わってくるような人物でした。孔子の弟子たちのように、共有する「君子」像がある場合、次のような説明もできますが、おそらくこの人とは君子像を共有できていなかったのでしょう。「君子は道を謀りて食を謀らず。耕すも、餒其の中に在り。学べば、禄其の中に在り。君子は道を憂えて貧しきを憂えず。|「論語」衛霊公第十五32
また、「民」と持ち出していることから、為政者だった可能性を想像することもできます。人民が徳性を高めることが国の安寧に繋がるという考えが、孔子の根底にあるため、この為政者に対して、半ば皮肉的に回答したのが本章句だとすれば、このような表現も腑に落ちるのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
衛霊公第十五34< | >衛霊公第十五36


【原文・白文】
 子曰、民之於仁也、甚於水火。水火吾見蹈而死者矣。未見蹈仁而死者也。

(子曰わく、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾蹈みて死する者を見る。未だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、民(たみ)の仁(じん)に於(お)けるや、水火(すいか)よりも甚(はなは)だし。水火(すいか)は吾(われ)蹈(ふ)みて死(し)する者(もの)を見(み)る。未(いま)だ仁(じん)を蹈(ふ)みて死(し)する者(もの)を見(み)ざるなり。


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