論語、素読会

回や、我を助くる者に非ざるなり|「論語」先進第十一03

孔先生がおっしゃった、回は私を啓発するような機会を与える者ではない。私のことばにおいて、(回が)心からうれしく思わないことはない。(回は常に私のことばを理解して心からうれしく思っている。)|「論語」先進第十一03

【現代に活かす論語】
先輩である自分が成長する機会を与えない後輩がいるとしたら、それは先輩である自分のことばを素直に聞いてくれる人物だろう。

自分のことばに理解が進まず疑問を投げかけてくれるひとは、自分が成長するための機会を与えてくれる人物である。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

07:45「先進第十一」前半1 – 16 素読
2023.01.13収録

【解釈】

回(かい) … 顔淵(がんえん)。姓は顔(がん)、名は回(かい)、字は子淵(しえん)。孔子より三十歳若い。孔子よりも早く、三十歳(一説では四十歳とも)で死んだ。秀才で、門人の中で一番の学問好き。孔子の第一の弟子ともいわれる。「論語」の登場人物|論語、素読会

子曰わく、回や、我を助くる者に非ざるなり。吾が言に於て、説ばざる所無し。|「論語」先進第十一03
子曰、回也、非助我者也。於吾言、無所不説。

「助」(たすける)は力添えする、協力する、手伝う。「言」(げん)は言論、学説、主張、発言。「説」(よろこぶ)は心からうれしく思う。

孔先生がおっしゃった、回は私を啓発するような機会を与える者ではない。私のことばにおいて、(回が)心からうれしく思わないことはない。(回は常に私のことばを理解して心からうれしく思っている。)

【解説】

ごく近しく親しみを込めて顔淵を回と呼んでいます。その顔淵が孔子自身を助けるというのはどういう状況かと想像すると、孔子が学ぶことを助ける、つまり啓発すると解釈しました。論語から感じる孔子の考えは、弟子との対話によって、弟子からの疑問によって孔子自身の学びが深まるというものです。しかし、顔淵からはそのような疑問や問いかけがないということになります。孔子の言葉を常に心からうれしく思ってよく理解する顔淵とのやりとりでは、孔子が伝え方をあらためて考えたり、考えを巡らすような機会を与えない、つまり孔子の学びには結びつかないと言わしめているのです。この章句は孔子が顔淵の能力を認めている数ある章句のひとつです。

この章句をさらに味わうとすれば、孔子のことばに対して、理解が進まず疑問を投げかけてくる弟子は、孔子にとっては自身の成長の糧であるということです。ここに孔子の凄みがあると思います。弟子との対話によって共に成長するという教育者・孔子の姿勢を確認できる章句です。


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【原文・白文】
 子曰、回也、非助我者也。於吾言、無所不説。

(子曰わく、回や、我を助くる者に非ざるなり。吾が言に於て、説ばざる所無し。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、回(かい)や、我(われ)を助(たす)くる者(もの)に非(あら)ざるなり。吾(わ)が言(げん)に於(おい)て、説(よろこ)ばざる所(ところ)無(な)し。


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