論語、素読会

吾が党に直躬なる者有り|「論語」子路第十三18

葉公が孔子に話して言うには、私の村に正しい行いを信条とするものがいます。その父親が羊を盗んだので、その子はこれを明らかにしましたと。孔先生がおっしゃった、私の村の性格が素直な者は、少し違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。素直な行いはその中にありますと。|「論語」子路第十三18

【現代に活かす論語】
人間の本質は、隠したい庇いたいと思う行動にあります。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

21:45「子路第十三」前半16 – 30 素読
2023.10.12収録

【解釈】

葉公(しょうこう) … 姓は沈(ちん)、名は諸梁(しょりょう)、字は子高(しこう)。楚の国の重臣で葉(しょう)地方の長官。自分で「公」を僭称していた。「論語」の登場人物|論語、素読会

葉公孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者有り。其の父羊を攘みて、子之を証す。孔子曰わく、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。|「論語」子路第十三18
葉公語孔子曰、吾党有直躬者。其父攘羊。而子証之。孔子曰、吾党之直者、異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。

「語」(かたる)は互いに話し合う、談論する。「党」(とう)は集落の編制単位、五百戸むら。「直躬」(ちょっきゅう)は正しい行いを信条とする、また、そうすること。「直」は正直な人。「躬」はつつしみ、へりくだる。「攘」(ぬすむ)はぬすみ取る。「証」(しょうす)は物事を明らかにする、しるし。「直」(なおし)は性格がすなおなさま。

葉公が孔子に話して言うには、私の村に正しい行いを信条とするものがいます。その父親が羊を盗んだので、その子はこれを明らかにしましたと。孔先生がおっしゃった、私の村の性格が素直な者は、少し違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。素直な行いはその中にありますと。

【解説】

この章句の解釈で重要なのは「直」をどう理解するかという点です。
孔子が言う、父が庇い子が庇うのが正直な心であるということから転じて、父子の情愛は絶対であり、何事にも優先するという先達の解釈があります。はじめに葉公が言う条件に孔子の言葉を当てはめて、羊を盗んだことを子に知られないようにする父とそれを知っても父を庇う子と解釈するのですが、その上で、その正直な心が至上のものであるという考えはしっくりしません。
「論語集解(古注)」では、父が庇い子が庇うのが人間の真理であると言い、「論語集注(新注)」では、父子が互いに隠すのは天理である。人の情けはこれに至ると言います。「真理」とは知識が事実や論理の法則に一致していることです。「天理」とは天然の本性。道理を備えている人の本性です。「真理」が単に人間の本質であるとしていることに対して、「天理」はそれが道に敵っているという点です。つまり父子の情愛が至上のものであるという「論語集注(新注)」の解釈から、文献によっては更にそれを押し進めて父子の情愛が優先するという解釈に発展したのではないかと思うに至りました。

孔子は家庭内の父兄親戚などの年長者を敬い意見を聞くことが大事で、政治の世界にも通じると説きます。「書経には「大切なのは孝行、親に素直で、兄弟は仲睦まじければ、政治を為すこと(政治に影響を及ぼすこと)である」とある。これ(家庭内での生活をよくすること)もまた政治を為すことだ。|「論語」為政第二21
家庭での行いは政治に通じるという考えです。しかしそれは、間違ったことでも父兄の言葉が正しいということではありません。その前提でこの章句を解釈することは必須であると考えます。
葉公が為政者の立場で持ち出した「直」の例に対して孔子が異を唱えているのですから、孔子がいう、父子双方が庇い合うという「直」の理解無しに、政治を行うべきではないと伝えているのではないでしょうか。
この前提に立ってもう一度章句を眺めると、葉公は領地の民を例にとって自分の政治の成果を孔子に伝えており、その態度は少々自慢げです。父子の間であっても的確に正しい悪いの判断ができる、そういう正直な民が育っていると言いたげです。これに対して孔子は、それを正直と言っては足元をすくわれますと言いたいのか、それは人間の本質を言い当てていないと言いたいのか、その真意は分かりませんが、父の行いを証言した子を正しい行いを信条とする民を「直」とすることについて、ちょっと違いませんか?と言っているのがこの章句です。

【チャレンジ解釈】

では孔子の本音は?そして、論語の編者は何を伝えたかったのでしょうか。
第一は、葉公が処罰によって国を治めようとしていて、それに対して孔子は実際の民の真理は違うので、徳政によって国を治めるべきだという解釈。
国を法律や制度をもって導き、刑罰で統制しようとするならば、国民はただその刑を逃れるだけで何も恥じなくなる。道徳によって導き、礼儀や儀礼を伝えて統制していくと、人民は自分を恥じて自らを省みて、自ずと正して善に向かっていくようになる。|「論語」為政第二03
第二は、親である君(葉公)が自分の間違いを隠し、子である官吏がそれを庇うという構図を皮肉っているという解釈です。民には正直な行いを推奨しておきながら、為政者たちはそれぞれを庇い合うという状況を人間の真理(醜い行い)として指摘しているという考えです。
先達たちの解釈とは違いますが、私にはこちらの二点の方がしっくりくるのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
子路第十三17< | >子路第十三19


【原文・白文】
 葉公語孔子曰、吾党有直躬者。其父攘羊、而子証之。孔子曰、吾党之直者、異於是。父為子隠、子為父隠。直在其中矣。
<葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊、而子證之。孔子曰、吾黨之直者、異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。>

(葉公孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬なる者有り。其の父羊を攘みて。子之を証す、孔子曰わく、吾が党の直き者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。)
【読み下し文】
 葉公(しょうこう)孔子(こうし)に語(かた)りて曰(い)わく、吾(わ)が党(とう)に直躬(ちょっきゅう)なる者(もの)有(あ)り。其(そ)の父(ちち)羊(ひつじ)を攘(ぬす)みて。子(こ)之(これ)を証(しょう)す、孔子(こうし)曰(のたま)わく、吾(わ)が党(とう)の直(なお)き者(もの)は、是(これ)に異(こと)なり。父(ちち)は子(こ)の為(ため)に隠(かく)し、子(こ)は父(ちち)の為(ため)に隠(かく)す。直(なお)きこと其(そ)の中(なか)に在(あ)り。


「論語」参考文献|論語、素読会
子路第十三17< | >子路第十三19


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