論語、素読会

欺くべきも、罔うべからざるなり|「論語」雍也第六24

【原文】
 宰我問曰、仁者雖告之曰、井有仁焉、其従之也。子曰、何為其然也。君子可逝也、不可陥也。可欺也、不可罔也。
<宰我問曰、仁者雖告之曰、井有仁焉、其從之也。子曰、何爲其然也。君子可逝也、不可陥也。可欺也、不可罔也。>

(宰我問うて曰わく、仁者は之に告げて、井に仁ありと曰うと雖も、其れ之に従わんや。子曰わく、何為れぞ其れ然らん。君子は逝かしむべきも、陥るべからざるなり。欺くべきも、罔うべからざるなり。)
【読み下し文】
 宰我(さいが)問(と)うて曰(い)わく、仁者(じんしゃ)は之(これ)に告(つ)げて、井(せい)に仁(じん)ありと曰(い)うと雖(いえど)も、其(そ)れ之(これ)に従(したが)わんや。子(し)曰(のたま)わく、何(なん)為(す)れぞ其(そ)れ然(しか)らん。君子(くんし)は逝(ゆ)かしむべきも、陥(おおしい)るべからざるなり。欺(あざむ)くべきも、罔(し)うべからざるなり。

『論語、素読会』
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00:00 章句の検討
13:55 「雍也第六」後半11-28 素読
2021.9.28収録


宰我(さいが) … 孔子の門人。姓は宰、名は予、字は子我(しが)。弁論にすぐれていた一方、日中に昼寝をして孔子を嘆かせた。

【解釈】

宰我問曰、仁者雖告之曰、井有仁焉、其従之也。

「仁者」(じんしゃ)は仁徳のあるひと、「仁」は思いやり情愛に溢れること。「雖〜」は仮定形。「井」(せい)は井戸。「井有仁焉」は井戸に仁を発揮する状態がある、つまり井戸に人が墜ちていて助けが必要という意になる。
宰我が孔子に尋ねた、仁徳があるひとは、井戸にひとが墜ちていると告げられたら、それを信じて助けるでしょうか。

子曰、何為其然也。君子可逝也、不可陥也。可欺也、不可罔也。

「君子」(くんし)は人の上に立つ立派な人、仁者。「逝」(ゆかしむ)は往く。「罔」(しう)は眩ます、騙す。
孔先生がおっしゃった、どうしてそうするだろうか。君子は井戸まで往くべきだが、救うために墜ち入ることはできない。欺くことはできても、本当に騙すことはできない。


【解説】

「井有仁焉」ですが、井戸に仁ありというのはどのような状態をいうのか。まずこの解釈のポイントは、孔子の答えの中にあります。「逝」けれども「陥」せず。「欺」ことができるが「罔」できない。つまり、井戸の中に仁者が墜ちるかもしれない状態が発生しているということで、「井戸にひとが墜ちている」という解釈になります。
井戸にひとが墜ちている状態が「仁」の状態かというと、それはとても怪しいと思います。なぜなら宰我が仁者と言っているのに対して、孔子は君主はと返しているからです。宰我は、仁者は情愛に溢れたひと、慈悲の気持ちが強いひとと考えて、ひとを救うためなら危険を冒すかという質問をしたのですが、この「仁」に対する根本的な問いに対して、孔子は仁であるかどうかという前に、君子であれば正しい判断ができるよと、一蹴しているようにも感じます。


「論語」参考文献|論語、素読会
雍也第六23< | >雍也第六25


【現代に活かす論語】
人の上に立つリーダーには、人情に訴えて欺くことはできても、正しい判断まで騙すことはできない。