論語、素読会

罪を天に獲れば、禱る所無なきなり|「論語」八佾第三13

【原文】
 王孫賈問曰、与其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。子曰、不然。獲罪於天、無所禱也。
<王孫賈問曰。與其媚於奧。寧媚於竈。何謂也。子曰。不然。獲罪於天。無所禱也。>
(王孫賈問うて曰わく、其の奧に媚びんよりは、寧ろ竈に媚びよとは、何の謂いぞや。子曰わく、然らず。罪を天に獲れば、禱る所無なきなり。)

『論語、素読会』
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00:00​ 章句の検討 八佾第三12
04:50​ 章句の検討 八佾第三13
12:10​ 「八佾第三」01-26 素読
2021.4.16収録


王孫賈(おうそんか) … 衛(えい)の国の大夫。霊公(れいこう)に仕えて軍を統率した名臣。

【解釈】

王孫賈問曰、与其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。

「奧」(おう)は家の奥の神様を祀る場所のこと。「与〜寧」(〜よりはむしろ〜せよ)は比較の形。「竈」(そう)はかまどの神。「何謂也」(なんのいいぞや)はどういう意味でしょうかの意。
衛の大夫、王孫賈が孔先生に尋ねました。奧の神にこびるよりは寧ろかまどの神にこびよというのは、どういう意味でしょうか?

子曰、不然。獲罪於天、無所禱也。

「不然」(しからず)は正しくないの意。
孔先生がおっしゃった、それは正しくありません。天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。


【解説】

孔子が魯の役人を辞めて、霊公(れいこう)が治める衛の国に任官した際にのやり取りのようです。霊公は夫人の南子に溺れて政治を顧みなかったため、霊公を助けていた王孫賈に尋ねられた際も、そもそも天に背いていることが間違いであって、どこに祈っても許されるわけではないと一蹴しているのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三12< | >八佾第三14


【現代に活かす論語】
道理、道徳に背くような行為をすれば、いつどこで神様に祈っても無駄です。天に背くような行為は祈ったところで許されません。