論語、素読会

祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす|「論語」八佾第三12

祖先の霊を祭るには、祖先がそこにいるかのように祭る。神を祭るには、神が目の前にいるかのように祭る。孔先生がおっしゃった、私は自ら祭りに参列して誠意を尽くさなければ、祭ったような気持ちにならない。|「論語」八佾第三12

【現代に活かす論語】
仏前で手を合わすときはそこに祖先の霊を感じ、神前で手を合わすときは神様の存在を感じる。真の心を以て参らなければ、祀った気持ちにはならない。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00​ 章句の検討 八佾第三12
04:50​ 章句の検討 八佾第三13
12:10​ 「八佾第三」01-26 素読
2021.4.16収録

【解釈】

「祭」は(まつること)や(まつるには)と読み下す。

祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰わく、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し。|「論語」八佾第三12
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不与祭、如不祭。

「如在」(いますがごとくし)は祖先がそこにいるかのようにの意。「如神在」(かみいますがごとくし)も同様。「不与」(あずからざる)は自ら関与する、祭りに参列なり直接行うの意。

祖先の霊を祭るには、祖先がそこにいるかのように祭る。神を祭るには、神が目の前にいるかのように祭る。孔先生がおっしゃった、私は自ら祭りに参列して誠意を尽くさなければ、祭ったような気持ちにならない。

【解説】

祭礼が形骸化していることや、天子が行うべき祭礼を諸侯が勝手に行っている実情を嘆いて、自らそのような祭礼は認めないという気持ち、自身の祭礼に対する立ち振る舞いを語ったのだと思います。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三11< | >八佾第三13


【原文・白文】
 祭如在、祭神如神在。子曰、吾不与祭、如不祭。

(祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。子曰わく、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し。)
【読み下し文】
 祭(まつ)ること在(いま)すが如(ごと)くし、神(かみ)を祭(まつ)ること神(かみ)在(いま)すが如(ごと)くす。子(し)曰(のたま)わく、吾(われ)祭(まつり)に与(あずか)らざれば、祭(まつ)らざるが如(ごと)し。


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