論語、素読会

能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ|「論語」雍也第六28

【原文】
 子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。
<子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。>

(子貢曰わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。)
【読み下し文】
 子貢(しこう)曰(のたま)わく、如(も)し博(ひろ)く民(たみ)に施(ほどこ)して、能(よ)く衆(しゅう)を済(すく)う有(あ)らば、何如(いかん)。仁(じん)と謂(い)うべきか。子(し)曰(のたま)わく、何(なん)ぞ仁(仁)を事(こと)とせん。必(かなら)ずや聖(せい)か。堯(ぎょう)舜(しゅん)も其(そ)れ猶(なお)諸(これ)を病(や)めり。夫(そ)れ仁者(じんしゃ)は、己(おのれ)立(た)たんと欲(ほっ)して人(ひと)を立(た)て、己(おのれ)達(たっ)せんと欲(ほっ)して人(ひと)を達(たっ)す。能(よ)く近(ちか)く譬(たとえ)を取(と)る。仁(じん)の方(みち)と謂(い)うべきのみ。
 ※方 … ほう・みち、と読み下す。


子貢(しこう) … 姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、字は子貢(しこう)。孔子より31歳若い。「論語」の中で孔子との問答がもっとも多い。言葉巧みな雄弁家で自信家だったが、孔子には聡明さを褒められ、言葉の多さを指摘されている。経済面で能力が高かったと言われている。

堯・舜(ぎょう・しゅん) … ふたりは伝説上の聖天子。理想と仰ぎ、堯舜と併称される。

【解釈】

子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如。可謂仁乎。

「如」(もし)は条件提示。「博施」(ひろくほどこす)は広く善意をほどこすこと。「能」(よく)はよく。「済」(すくう)は救う。「衆」(しゅう)は多くの人々。「何如」(いかん)はどうだろうと状態を聞く。「仁」(じん)は思いやりや情愛が深いひと。『仁』とは?|論語、素読会 
子貢が孔子に言った、もし広く人民に善意を施し、よく民衆を救うことができたなら、思いやりあるひと、仁者と言えるでしょうか。

子曰、何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。

「何事於仁」(なんぞじんをこととせん)は、仁者どころではない。「必也〜乎」きっと〜であろう。『仁』とは?|論語、素読会 「病」(やむ)は憂う。「達」(たっす)は到達する、成し遂げる。「近」(ちかく)は手近。「取譬」(たとえをとる)は自分で取り上げて比較する。「可」(べき)はである。「方」(みち)は方法、道、術。「已」はのみ。
孔先生がおっしゃった、仁者どころではない、きっと聖人であろう。堯舜のような聖人ですらそれができないと悩んでいた。仁者は自分が立とうとするときに他人を立て、自分が成長して成し遂げたいと思うときはまず他人を成長させようとする。(自他関係なく)よく手近に自分で取り上げて比較、実践するのが、仁者になる方法である。


【解説】

仁者が何たるかを明確に語っている章句です。広く人民に善意を施し、民衆を救うひとになるためには、自他関係なく立ち、成長し成し遂げること、利他の精神が仁者になる方法であると説いています。


「論語」参考文献|論語、素読会
雍也第六27< | >述而第七01


【現代に活かす論語】
思いやりがあり情愛が深いひとになるには、自分が行動したいと思うときにまず他人の行動を助け、自分が到達したいと思うときに他人を成長させる。それが方法である。

広く人民に善意を施し、民衆を救うことができれば、その人は情愛が深く思いやりに溢れたひとといえるでしょう。