論語、素読会

富と貴とは、是れ人の欲する所なり|「論語」里仁第四05

【原文】
 子曰、富与貴、是人之所欲也。不以其道得之、不処也。貧与賤、是人之所悪也。不以其道得之、不去也。君子去仁、悪乎成名。君子無終食之間違仁、造次必於是、顚沛必於是。
<子曰、富與貴、是人之所欲也。不以其道得之、不處也。貧與賤、是人之所惡也。不以其道得之、不去也。君子去仁、惡乎成名。君子無終食之間違仁、造次必於是、巓沛必於是。>

(子曰わく、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、処らざるなり。貧と賤とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。君子は仁を去りて、悪くにか名を成さん。君子は食を終わるの間も仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於てし、顚沛にも必ず是に於てす。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、富(とみ)と貴(たっとき)とは、是(こ)れ人(ひと)の欲(ほっ)する所(ところ)なり。其(そ)の道(みち)を以(もっ)て之(これ)を得(え)ざれば、処(お)らざるなり。貧(まずしき)と賤(いやしき)とは、是(こ)れ人(ひhと)の悪(にく)む所(ところ)なり。其(そ)の道(みち)を以(もっ)て之(これ)を得(え)ざれば、去(さ)らざるなり。君子(くんし)は仁(じん)を去(さ)りて、悪(いず)くにか名(な)を成(な)さん。君子(くんし)は食(しょく)を終(お)わるの間(あいだ)も仁(じん)に違(たが)うこと無(な)く、造次(ぞうじ)にも必(かなら)ず是(ここ)に於(おい)てし、顚沛(てんばい)にも必(かなら)ず是(ここ)に於(おい)てす。

『論語、素読会』
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00:00 章句の検討
11:40 「里仁第四」01-26 素読
2021.5.18収録


「不以其道得之、不処也。」(そのみちをもってこれをえざれば、おらざるなり)とも「不以其道、得之不処也。」(そのみちをもってせざれば、これをうともおらざるなり)とも読み下す。

【解釈】

子曰、富与貴、是人之所欲也。不以其道得之、不処也。

「富」(とみ)は裕福、「貴」(とうとき)または(たっとき)は高い地位。「其道」(そのみち)は裕福になったり高い地位に就く正しい道、方法と解釈します。「不処」(おらざる)は満足しないの意。
孔先生がおっしゃった、裕福になり高い地位に就きたいというのは、ひとが願うことである。(君子は)裕福になったり高い地位に就くために、正しい道理を以てそれを得なければ満足しない。

貧与賤、是人之所悪也。不以其道得之、不去也。

「貧」(まずしき)は貧しいこと。「賤」(いやしき)とは社会的地位を得ないこと。「悪」(にくむ)は嫌がるの意。「其道」(そのみち)は正しい道理つまり「仁」による言動。「不去」(さらざる)は去る、逃げ出すの意。
貧しく低い地位にいるというのは、ひとが嫌うことである。(君子は)貧しく低い地位になっていても、それが正しい「仁」の行動によって起こったことでなければ、焦って逃げ出したりしない。

君子去仁、悪乎成名。

「君子」は人の上に立つ立派な人。「仁」は論語で大切にしている心。私心なくひとを思いやる心。『仁』とは?|論語、素読会 「悪乎成名」(いずくにかなをなさん)は、どうして立派な人物だと認められるだろうかという反語。
君子が「仁」の道を外れたならば、どうして立派な人物だと認められようか。

君子無終食之間違仁、造次必於是、顚沛必於是。

「終食」(しょくをおわる)とも(しゅうしょく)とも読み下し、食事をするの意。「終食之間」は短い食事の間もという意で、片時もというニュアンスを感じることができる。「違仁」(じんにたがう)は「仁」の道を踏み外す、離れる。「造次」(ぞうじ)はあわただしいときの意。「顚沛」(てんぱい)はつまずき倒れそうな危急の場合の意。
君子は短い食事の時間であっても「仁」の道から離れることなく、あわただしいときも必ず「仁」の道に居て、つまずき倒れそうな場合でも必ず「仁」の道から離れることはない。


【解説】

「仁」について考えさせる章句です。裕福になり社会的に高い地位になりたいというひとの気持ちを肯定しつつ、君子(および孔子)は「仁」がなければ満足しないといいます。そのために必要な「仁」とはなんでしょうか。
不正やひとを傷つけて得た地位では充足感は得られないということでしょう。つまり誰からも正しいと認められる方法、道徳心や利他の心で得られた富、地位であれば満足できるということだと思います。

続いて、貧しく地位が低い状態に陥ったとしても、それが正しい行いの末の結果でなければ「焦らない、逃げ出さない」といいます。
では、正しい行い、「仁」の行いをしていたのにも関わらず、貧しく地位が低い状態になったら、どうしたらいいのでしょうか。また、貧しく地位が低い状態で焦らず逃げ出さなかった場合、正しい行いをしたら抜け出せるのでしょうか。

この章句ではそこまでの言及はなされていません。いくつかの条件の組み合わせがあるなかの、「仁」の心なく起きた、裕福と貧しさの対比のみを表しています。
「仁」の心で得た富と地位は満足する。「仁」の心でいたにも関わらず陥った貧しさと低い地位からは、逃げ出す。そう理解することも可能です。だとすると、貧しかったり社会的に低い境遇からは逃げ出したり離れたりしても構わないと考えることが可能です。少々極端な解釈だとしても孔子の考え方を垣間見たような気がするのです。

そして「仁」を外れれば立派な人と認めない。慌ただしくとも失敗しそうでも自分を失わず、道徳心や利他の精神を忘れないことを求めています。孔子や多くの弟子たち、そして私たちは、逆境においてもなお「仁」の心を持ち続けたとしたら、その先にはどんな世界が広がるのか。他の論語の章句に答えを探したいと思います。


「論語」参考文献|論語、素読会
里仁第四04< | >里仁第四06


【現代に活かす論語】
裕福になりたい出世したいというのは、ひとが願うことである。人の上に立つ立派な人物は、それが道理に反して、不正や人に迷惑をかけることによって得たものであるならば、満足はしない。

貧しく社会的に恵まれない地位をひとは嫌う。ただそれが、思いやりを欠く利己的な行為による結果だとしたら、焦ったり逃げ出したりしない。

リーダーとなる人物は、短い食事の間であっても、慌ただしい時や逆境につまずきそうになっても、利他の心、思いやりの心を忘れることはない。