論語、素読会

学びて時に之を習う|「論語」学而第一01

子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不溫、不亦君子乎。
(子曰わく、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや。人知らずして溫みず、亦た君子ならずや。)

「学而第一」の学而は、この章の二文字を編名としている。論語の二十編どの編も同じ。

「子曰く」は、『しいわく』と素読するのが一般的ですが、孔子の章句のみ『しのたまわく』と敬う読み下しも存在します。
私が主催する「論語、素読会」では、子曰わく(しのたまわく)と読んでいます。

また、「朋有り」と読み下す場合と、「朋遠方より来たる有り」と読み下す場合があります。後者の方が一般的なように感じますが、お子さんと素読会を行う場合は、朋有りで一度区切ると、意味が通じやすくなる気がしますので、使い分ける場合があります。

同様に、「溫みず(うらみず)」と読み下す場合と「溫らず(いきどおらず)」と読み下す場合があります。

論語の素読をする場合は、その状況に応じて2冊を使い分けております。読み下しは2冊ともほぼ同じです。ただ、読み下し文に違いがあったとしても伝えたい意味・解釈は変わりませんので、気にすることはないと思っています。 「論語」参考文献|論語、素読会

学而時習之、不亦説乎。

「学び」と「習う」ことを分けていることから、学んだことをその時々で実践・経験を通して習熟していくこと、自分のものにしていくことは喜ばしいではないかと説いていると思います。

有朋自遠方来、不亦楽乎。

遠方より来るという場合の「遠方」に思いを馳せます。どのくらいの距離を遠方と呼んでいたのでしょう。孔子が生きた紀元前6世紀(孔子は紀元前551年生まれ)頃、孔子のように牛車で移動する人ばかりではなかったと思いますので、徒歩での移動を想像してみてください。
そして、現在のご自身にとっての「遠方」を想像して、お友だちのことを思い起こしてみてください。
このお友だちは、朋(とも)に学ぶ学友であったり、会社の同僚であったり、はたまた自分の教え子かも知れません。
遠方から遙々訪れる朋と過ごし学びを深めるひとときは楽しくないはずがありませんね。

人不知而不溫、不亦君子乎。

「君子」とは人が生まれながらにして目指す立派な人物。人に存在を認められなくても恨むことなく自分のやるべきことを粛々と行う人は、一廉(ひとかど)の人物なのではないかと伝えていると思います。

この「論語」の最初の章句は、「論語」の序説であり「小論語」と言われています。同時に論語の修学について語り、孔子の生涯に重ね合わせた人間形成の示しているとも言われています。

第一は、机上の空論、耳学問ではなく実践を通して習熟していくこと。第二に人と交わって共同で学びを高めていくこと。第三に決して諦めることなく自分自身を信じ己を律して切磋琢磨していくこと。以上の決意とも取れる原理を高らかに宣言しているように感じます。

「遠方」について思いを馳せると書きましたが、私が思う「遠方」についてお話しします。

長野県に小布施町という観光地として有名な街があります。長野市の北東、長野駅から直線距離で約15kmくらいに位置します。
この小布施のかつて豪商と呼ばれた高井家に高井鴻山という方がいました。現在の長野市の南、松代藩藩士、佐久間象山とも交流があった高井鴻山の元には、小布施から北に約20kmほど離れた飯山からも学問のために大人たちが通ったといいます。

私はこの話を聞いたとき、この「朋遠方より来たる有り」の章句を思い出しました。江戸時代の大人たちは農作業の合間を縫って徒歩で度々小布施を訪れていたのではないかと思うのです。そして高井鴻山が修めていたのが「儒学」でした。


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