論語、素読会

子曰わく、已んぬるかな|「論語」公冶長第五27

孔先生がおっしゃった、もうおしまいだなぁ。私は未だによくその過ちを発見して、自分の内で自らを責めるような人を見たことがない。|「論語」公冶長第五27

【現代に活かす論語】
自分の過ちを認め、深く内省する。そんな人物でありたい。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
06:10 「公冶長第五」後半16-28 素読
2021.8.21収録

【解釈】

子曰わく、已んぬるかな。吾未だ能く其の過を見て、内に自ら訟むる者を見ざるなり。|「論語」公冶長第五27
子曰、已矣乎。吾未見能見其過、而内自訟者也。

「已」(やむ・やめる)は停止する終わる。「已矣乎」(やんぬるかな)は「矣」が断定「乎」は詠嘆詞。「訟」(せむ)は責めること。心に深くとがめ責めること。

【解説】

自分の過ちを認めること。その上で自責の念を強く持った人を見たことがないということを嘆いています。門人(弟子)に対する嘆きなのでしょうか。
孔子の言葉を記した「論語」の魅力は、帰らんか帰らんか|「論語」公冶長第五22や本章句にあるように、不特定の人に対する孔子の言葉、キャッチフレーズというか見出しになるような言葉によって、章句の中に緊張と緩和が生まれている点です。こういう場合は大抵、不特定な対象に向かっての言葉ですので、本章句の感嘆の対象もあくまで時代に対する嘆きです。その上で学びの在り方を問いただすことで、学び舎の弟子たちと問題を共有することで彼らの心に深く刻まれたに違いありません。これこそが孔子の教学の真骨頂なのではないでしょうか。


「論語」参考文献|論語、素読会
公冶長第五26< | >公冶長第五28


【原文】
 子曰、已矣乎。吾未見能見其過、而内自訟者也。

(子曰わく、已んぬるかな。吾未だ能く其の過を見て、内に自ら訟むる者を見ざるなり。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、已(や)んぬるかな。吾(われ)未(いま)だ能(よ)く其(そ)の過(あやまち)を見(み)て、内(うち)に自(みずか)ら訟(せ)むる者(もの)を見(み)ざるなり。

孔先生がおっしゃった、もうおしまいだなぁ。私は未だによくその過ちを発見して、自分の内で自らを責めるような人を見たことがない。


「論語」参考文献|論語、素読会
公冶長第五26< | >公冶長第五28


※Kindle版