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先祖からの誕生日の贈り物 〜原爆と戦死と沖縄民謡と誕生日と〜

私にとって「原爆」「戦死」「沖縄民謡」「誕生日」このワードが一緒になる日が本日、8月7日です。

沖縄戦今日は自分の誕生日に対する想いを綴ってみたいと思います。

誕生日の前日、毎年必ずテレビや新聞を通して「アメリカが広島に原爆を投下した」日を意識します。そして誕生日の2日後に「アメリカが長崎に再び原爆を投下した」日を迎える。そんな夏休みを子どもの頃から過ごしてきました。

暑さが残る真夏の夜。母は、思い出すかのように父、私の祖父のことを私に話していました。南方で戦時中に亡くなった時の様子を、伝え聞いたことですから決して正しい情報ではなかったにしろ、毎年のように話して聞かせました。また南方にいるはずの祖父が母の家の前で敬礼する姿を見たという人の話もよく聞きました。後から考えればそれはちょうど祖父が亡くなった時期と重なったそうです。

小学生の私はその様子を自分の中でイメージ化して記憶として残すようになっていました。敵機からの掃射を受けて亡くなった祖父がひとり出演する映像です。そして母の実家の前で敬礼をする霊となった祖父の映像も。大学生になったとき初めて見た祖父の出征前の写真はとても若く、今の私はその写真の祖父より10歳も歳をとってしまいました。

大学卒業後、オーストラリア滞在から帰国した私に「おじいさんに拝んできた?」「日本よりオーストラリアの方が近いのに」といわれた頃は、まだ祖父の死や自分の誕生日の前後の鎮魂に対して意識が高くありませんでした。

この頃、沖縄音楽に出会っています。当時はワールドミュージックの中の数枚のアルバムとして。そして30代に入ると沖縄出身の方が営む近くの居酒屋に入り浸りました。引っ越しして疎遠になってしまったその居酒屋の夫婦を思い出すかのように習い始めたのが三線でした。

毎年のように新曲が生まれ、歌い継がれるとそれは沖縄民謡として認められるんだよ。

そんな懐の深さと音楽が近くにある生活を知りたいと唄者や沖縄文化の書籍を読み始めたとき「沖縄戦」の事実に向き合うことになります。そして祖父の「戦死」と自分の誕生日の前後の鎮魂が重なり合ったのです。

第二次世界大戦の時代すでにハーグ陸戦条約など国際法で戦争のルールが規定され、民間人の被害を最小限にする努力が行われていましたが、それまでの対戦と同様沖縄戦では連合国軍だけでなく日本軍も民間人を巻き添えにしました。

戦争なんてそんなものなんでしょう。ルールなんて解釈次第、そういうことです。

原爆と戦死と沖縄民謡と誕生日と 私はこの点(ドット)のつながりは、私の先祖から贈られた「知恵」という贈り物だと思っています。

周りの解釈がいくら変わろうとも戦争が引き起こす悲惨な結果は変わりません。理由がどうであれ戦争は起こしたら最後待っている結果は手が付けられない想像を絶する悲しみです。そういったことに直面したとき少なくとも私たち家族や子孫が「知恵」を使って生き残れるようにこれからも伝えていかなければならない。そのために先祖が残してくれた巡り合わせだと。誕生日にそう思うのです。