論語、素読会

人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり|「論語」為政第二22

孔先生がおっしゃった、人として信義がなければその人のよさはなく、どうにもならない。大車と牛をつなぎ止める木が無く、小車と馬を繋ぐ部分が無ければ、どうして車を進めることができるだろうか。|「論語」為政第二22

【現代に活かす論語】
人として信義がなければその人の良さはない。牽引車と荷車の連結部分にあたるのが、人と人を繋ぐ「信」まごころである。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00​ 章句の検討
10:25​ 「為政第二」01-24 素読
2021.3.30収録

【解釈】

子曰わく、人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり。大車に輗無く、小車に軏無くんば、其れ何を以て之を行らんや。|「論語」為政第二22
子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無軏、其何以行之哉。

「信」は信義、まこと(誠)。 『信』とは?|論語、素読会 「可」はよさ。「大車」は牛車(牛が引く車)、大きな荷物を運ぶ車。「輗」(げい)とは、牛車・馬車などの前方に突き出した2本の棒、長柄=轅(ながえ)の端についている木。軛(くびき・頸木)を縛り付けて牛の首につなぎ、車を引かせるための道具(馬具)。「小車」は馬車、普通の馬で挽く車。「軏」(げつ)とは、轅(ながえ)の端が上向きに曲がったところ。軛(くびき)を付けて馬を車に結びつけるところ。「輗」(げい)も「軏」(げつ)も牛、馬と車を繋げる役割で、それが無ければ車を進めることができない。「何以〜哉」は、「どうして〜しようや。〜しない。」の形。「行」(やる)は車を押し進めること。

孔先生がおっしゃった、人として信義がなければその人のよさはなく、どうにもならない。大車と牛をつなぎ止める木が無く、小車と馬を繋ぐ部分が無ければ、どうして車を進めることができるだろうか。

【解説】

「信」=信義が人と人を結びつけるものと定義しています。車と牛馬を繋げる部分を「信」となぞらえて、車を進めるために重要な要がなければ、身動きが取れないと言っています。

では、君子(人の上に立つもの)は、車(動かすべきもの進むべきもの)と牛馬(牽引するもの挽くもの)どちらなのでしょうか。孔子がそこまで考えて話したかどうかは定かではありませんが、挽くにしても挽いてもらうにしても人からの信頼が必要で、人との間に「信」まことが無ければどうにもならないと、そう伝えているのだと思います。


「論語」参考文献|論語、素読会
為政第二21< | >為政第二23


【原文・白文】
 子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無軏、其何以行之哉。

(子曰わく、人にして信無くんば、其の可なるを知らざるなり。大車に輗無く、小車に軏無くんば、其れ何を以て之を行らんや。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、人(ひと)にして信(しん)無(な)くんば、其(そ)の可(か)なるを知(し)らざるなり。大車(だいしゃ)に輗(げい)無(な)く、小車(しょうしゃ)に軏(げつ)無(な)くんば、其(そ)れ何(なに)を以(もっ)て之(これ)を行(や)らんや。


「論語」参考文献|論語、素読会
為政第二21< | >為政第二23