論語、素読会

関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず|「論語」八佾第三20

孔先生がおっしゃった、関雎の詩は楽しいところは楽しみすぎるということはなく、哀しく感じる部分も哀しすぎるということはなく、調和が取れた詩である。|「論語」八佾第三20

【現代に活かす論語】
お祝い事、弔い事では、楽しみすぎず、悲しみすぎず、調和を考えることが望ましい。

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00:00​ 章句の検討

00:00​ 「八佾第三」01-26 素読
2021.4.26収録

【解釈】

子曰わく、関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず。|「論語」八佾第三20
子曰、関雎楽而不淫、哀而不傷。

「関雎」(かんしょ)は詩経の詩「淫」(いんする)はみだれる、楽しみの度が過ぎること。「傷」(やぶる)は哀しみの度を超して調和を失うこと。

孔先生がおっしゃった、関雎の詩は楽しいところは楽しみすぎるということはなく、哀しく感じる部分も哀しすぎるということはなく、調和が取れた詩である。

【解説】

『詩経』
國風(こくふう) 周南(しゅうなん) 関雎(かんしょ)

關關雎鳩 在河之洲
窈窕淑女 君子好逑
參差荇菜 左右流之
窈窕淑女 寤寐求之
求之不得 寤寐思服
悠哉悠哉 輾轉反側
參差荇菜 左右采之
窈窕淑女 琴瑟友之
參差荇菜 左右芼之
窈窕淑女 鐘鼓樂之

關關(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は 河の洲(す)に在り
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は 君子(くんし)の好逑(こうきゅう)
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に流(もと)む
窈窕(ようちょう)たる淑女は 寤寐(ごび)に求む
之を求めて得ざれば 寤寐(ごび)に思服(しふく)す
悠(ゆう)なる哉(かな)悠なる哉 輾轉(てんてん)反側(はんそく)す
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に采(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女は 琴瑟(きんしつ)もて友(した)しむ
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に芼(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女は 鐘鼓(しょうこ)もて樂(たの)しむ

クワーン、クワーンと鳴くみさご鳥が、黄河の中州におりたつ(祖霊は鳥の形をして河に降りたちたもうた)。たおやけき乙女(巫女)は、祖霊のつれあい。
高く低くしげる沼のアサザを、左に右に選びとる。たおやけき巫女は、夢にまで祖霊の降臨を求め願う。
求めても得られるとて、夢にまでもくり返し思いつめる。ああ憂わしきかな、伏しまどいつつ夜をすごすl
高く低くしげる沼のアサザを、左に右に選びとる。たおやけき巫女は、宗廟で琴瑟(こと)を奏でて(祖霊を呼ぶ)。
高く低くしげる沼のアサザを、左に右にと抜きとる。たおやけき巫女は、宗廟で鐘と鼓(たいこ)を鳴らして(祖霊を招く)。

「詩経 上 新釈漢文大系」石川忠久 著(明治書院 刊)

詩経は孔子の門人にとって必須の教書です。その詩経の最初の詩は幸福な男女が結婚生活に入っていく様子を祝福した詩で、発声すると音が美しい詩のようです。機会があれば、後述の「関雎」を翻訳ソフトで発音を聞いてみてください。まったく同じ発声ではないようですが、雰囲気を知ることができます。
詩経の中に孔子が教える「礼」を知る詩もあることから、祭礼において、楽しみすぎず哀しみすぎずバランスを取ることの大切さを説いていると考えることができるのではないでしょうか。
論語の編集者の工夫は、「礼」についてまとめた八佾第三のこの順序に「関雎」が調和が取れた詩であるという、孔子のひと言を置くというのは、八佾第三の句点のようなものにも感じるのです。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三19< | >八佾第三21


【原文・白文】
 子曰、関雎楽而不淫、哀而不傷。
<子曰、關雎樂而不淫、哀而不傷。>

(子曰わく、関雎は楽しみて淫せず、哀しみて傷らず。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく、関雎(かんしょ)は楽(たの)しみて淫(いん)せず、哀(かな)しみて傷(やぶ)らず。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三19< | >八佾第三21



關關雎鳩 在河之洲 窈窕淑女 君子好逑
參差荇菜 左右流之 窈窕淑女 寤寐求之
求之不得 寤寐思服 悠哉悠哉 輾轉反側
參差荇菜 左右采之 窈窕淑女 琴瑟友之
參差荇菜 左右芼之 窈窕淑女 鐘鼓樂之