論語、素読会

文獻足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴とせん|「論語」八佾第三09

孔先生がおっしゃった、私は夏の国の制度についてよく話をするが、夏の子孫の国である杞には、それを証明するものが足りない。私は殷の国の制度についてよく話をするが、殷の子孫の国である宋には、それを証明するものが足りない。それは、礼を伝える書物や人物がいないからだ。それがあれば私が言うことを証明できるのに、残念だ。|「論語」八佾第三09

【現代に活かす論語】
すぐれた会社の制度や規範はひとが後世に伝えるものです。伝える人物や書物がなく消滅してしまうことほど残念なことはありません。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討
09:40 「八佾第三」01-26 素読
2021.4.14収録

【解釈】

「杞」(き) … 周の武王が「殷*2」に勝ってから、「夏*1」の禹王の末裔である東楼公(とうろうこう)を探して、禹の祭祀をさせるために建てた国。

「宋」(そう) … 周の武王が殷の紂王を倒してから、紂王の兄の微子啓(びしけい)*3を領主として殷の湯王を祭祀させるために建てた国。

子曰わく、夏の礼は吾能く之を言うも、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文獻足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴とせん。|「論語」八佾第三09
子曰、夏礼吾能言之、杞不足徴也。殷礼吾能言之、宋不足徴也。文献不足故也。足則吾能徴之矣。

「夏」(か)は本ページの後半を参照。「礼」は広く制度、規範、礼節、祭礼のこと。ここでは制度の意。『礼』とは?|論語、素読会 「能」はよく。「杞」「徴」(しるし)は証、照明するの意。「殷」(いん)は本ページの後半を参照。「文」は書物、「献」は礼を知っている賢人のこと。

孔先生がおっしゃった、私は夏の国の制度についてよく話をするが、夏の子孫の国である杞には、それを証明するものが足りない。私は殷の国の制度についてよく話をするが、殷の子孫の国である宋には、それを証明するものが足りない。それは、礼を伝える書物や人物がいないからだ。それがあれば私が言うことを証明できるのに、残念だ。

【解説】

孔子の愚痴にも聞こえます。孔子は周代の制度(礼)を理想としており、周の制度は夏代・殷代の制度を参考にして(取捨選択して)作ったというのが、孔子の持論だったようです。
孔子の時代の大夫たちの悪政に忠告をしようにも説得させることができないジレンマを感じます。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三08< | >八佾第三10


【原文・白文】
 子曰、夏礼吾能言之、杞不足徴也。殷礼吾能言之、宋不足徴也。文献不足故也。足則吾能徴之矣。
<子曰、夏禮吾能言之、杞不足徴也。殷禮吾能言之、宋不足徴也。文獻不足故也。足則吾能徴之矣。>

(子曰わく、夏の礼は吾能く之を言うも、杞は徴とするに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文獻足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴とせん。)
【読み下し文】
 子(し)曰(のたま)わく。夏(か)の礼(れい)は吾(われ)能(よ)く之(これ)を言(い)えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足(た)らざるなり。殷(いん)の礼(れい)は吾(われ)能(よ)く之(これ)を言(い)うも、宋(そう)は徴(しるし)とするに足(た)らざるなり。文獻(ぶんけん)足(た)らざるが故(ゆえ)なり。足(た)らば則(すなわ)ち吾(われ)能(よ)く之(これ)を徴(しるし)とせん。


「論語」参考文献|論語、素読会
八佾第三08< | >八佾第三10



夏(か)王朝

 紀元前21世紀、帝舜(しゅん)は黄河の氾濫に悩まされ、夏族の禹に治水に当たらせた。禹は10年前後の歳月を、支流や放水路を作ることに費やして治水に成功した。
 舜は、部族連合の首長の座を禹に譲った。禹が没すると、その子の啓(けい)は、首長を選出するというそれまでの習慣を破って、自分が首長の地位を継承し、ここに王位の世襲制が確立する。
 夏王朝が実在したかどうかについては、なお疑問視されている。しかし1983年、河南省登封県告成鎮の西約1キロにある高台・王城崗から、夏王朝の王城と思われる遺跡が発掘された。以後、これを夏の時代のものと証明できる異物の発掘が待たれている。
 夏王朝は『史記』によれば16代まで続き、桀(けつ)王が暴虐だったために、殷の湯王に滅ぼされた。

「論語と孔子の事典」江連 隆 著(大修館書店刊)

殷(いん) <商(しょう)>王朝

 文物などによって裏付けられる、最古の王朝。古く、司馬遷の『史記』には、殷王朝の王名と系図とが記されていた。20世紀に入って、殷墟(今の河南省安陽、小屯付近)から次々に発見された亀甲獣骨文字を研究することによって、『史記』の王名や系図がほぼ正確であることがわかった。
 紀元前1600年ころ、湯王が夏王朝の暴君・桀(けつ)王を滅ぼして、殷王朝を創建。都を亳(ほく・今の河南省商丘県の南西)に置き、国号を商と称した。その時の宰相が伊尹(いいん)。
 以後、黄河の氾濫を避けて、都をたびたび移し、紀元前1300年ころ、盤庚(ばんこう)が殷に都を定めた。殷墟からの大量の出土品によって、殷王朝の実態がかなり明らかになっている。
紀元前1510年ころ、殷の紂(ちゅう)王は暴虐な政治を行ったとされ、人々の心は周の文王に集まっていった。前1020年ころ、文王の子の武王は紂王を伐って滅ぼし、王位に就いて周王朝を建てた。殷王朝は、31代・約650年続いて、その幕を閉じた。

 「論語と孔子の事典」江連 隆 著(大修館書店刊)

微子(びし)

名は啓(けい)、また開(かい)。殷の帝乙(ていいつ)の長子で、紂(ちゅう)王の義兄。紂王の暴政を諫めたが聞き入れられず、微(び)の国に逃れた。周の武王が紂王を討つと、武王に仕えた。武王は微国を与えたので、微子と称する。また、殷の後を継いで宋(そう)に封ぜられ、殷の遺民は微子を「聖」とたたえた。孔子は、殷の三人の仁者に挙げている。

「論語と孔子の事典」江連 隆 著(大修館書店刊)