論語、素読会

内に省みて疚しからざれば、夫れ何をか憂え何をか懼れん|「論語」顔淵第十二04

司馬牛が「君子」について尋ねた。孔先生がおっしゃった、人の上に立つ立派な人〔君子)は思いなやむことなく恐れおののくことはない。(司馬牛が)言った、思いなやまず恐れおののかない、これで君子といえるのでしょうか。孔先生がおっしゃった、(自分の)こころをふりかえり考えて恥じることがなければ、それ何を思いなやんで何を恐れおののくことがあろうか。|「論語」顔淵第十二04

【現代に活かす論語】
自分自身を振り返って恥じることがなければ、心配したり恐れることはありません。

『論語、素読会』YouTube動画
00:00 章句の検討

10:40「顔淵第十二」前半01 – 13 素読
2023.04.28収録

【解釈】

司馬牛(しばぎゅう) … 姓は司馬(しば)、名は耕(こう)、字は子牛(しぎゅう)。「論語」の登場人物|論語、素読会

司馬牛君子を問う。子曰わく、君子は憂えず懼れず。曰わく、憂えず懼れず、斯れ之を君子と謂うか。子曰わく、内に省みて疚しからざれば、夫れ何をか憂え何をか懼れん。|「論語」顔淵第十二04
司馬牛問君子。子曰、君子不憂不懼。曰、不憂不懼、斯謂之君子已乎。子曰、内省不疚、夫何憂何懼。

「憂」(うれう)は心配する、思いなやむ。「懼」(おそれる)は恐れおののく。「内」(うち)はこころ。「省」(かえりみる)はふりかえり考える。「疚」(やましい)はうしろめたいさま、恥じるさま。「夫」(それ)は《文のはじめに置き議論の話題を提示する》

司馬牛が「君子」について尋ねた。孔先生がおっしゃった、人の上に立つ立派な人〔君子)は思いなやむことなく恐れおののくことはない。(司馬牛が)言った、思いなやまず恐れおののかない、これで君子といえるのでしょうか。孔先生がおっしゃった、(自分の)こころをふりかえり考えて恥じることがなければ、それ何を思いなやんで何を恐れおののくことがあろうか。

【解説】

弟子から質問されたとき、孔子はその弟子に合わせて回答の内容を変えます。司馬牛から君子について尋ねられた孔子は、心配したり恐れたりする必要はないといいます。ということは司馬牛は自分の中に恥じたり後ろめたいことがあるために、心配したり恐れたりすることがあったと考えられます。文献によると孔子を殺そうとした桓魋(かんたい)「天徳を予に生せり|「論語」述而第七22」の弟だそうです。


「論語」参考文献|論語、素読会
顔淵第十二03< | >顔淵第十二05


【原文・白文】
 司馬牛問君子。子曰、君子不憂不懼。曰、不憂不懼、斯謂之君子已乎。子曰、内省不疚、夫何憂何懼。

(司馬牛君子を問う。子曰わく、君子は憂えず懼れず。曰わく、憂えず懼れず、斯れ之を君子と謂うか。子曰わく、内に省みて疚しからざれば、夫れ何をか憂え何をか懼れん。)
【読み下し文】
 司馬牛(しばぎゅう)君子(くんし)を問(と)う。子(し)曰(のたま)わく、君子(くんし)は憂(うれ)えず懼(おそ)れず。曰(い)わく、憂(うれ)えず懼(おそ)れず、斯(そ)れ之(これ)を君子(くんし)と謂(い)うか。子(し)曰(のたま)わく、内(うち)に省(かえり)みて疚(やま)しからざれば、夫(そ)れ何(なに)をか憂(うれ)え何(なに)をか懼(おそ)れん。


「論語」参考文献|論語、素読会
顔淵第十二03< | >顔淵第十二05


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